カルテ62 符学院の女神竜像 その16
『雄々しく聳ゆるガウトニル
残雪溶けて流れ行き
我らが大地グルファスト
潤し生命の元となる
誉れ高きは赤竜に
跨る無敵の騎士団ぞ
嗚呼グルファスト
嗚呼グルファスト
我らが祖国永久に』
突如大鐘楼の窓から鳴り響いた馬鹿でかい声量の男性コーラスは、深夜の静寂さを完膚なきまでに破壊した。その合唱は並大抵の大きさではなく、大瀑布の滝壺に直接降り立った時のような、もしくは巨木をもなぎ倒す落雷の轟音のような、近くで聞けば完全に鼓膜が破壊されそうな凄まじいものだった。符学院どころかロラメット中の眠れる者たちは、皆強制的に目覚めさせられ、この世の終わりが訪れたのかとでもいうような顔をした。
「う、噂以上の音ね……あらかじめ耳を塞いでいても死ぬかと思ったわ……」
両手で耳介をしっかり押さえたエリザスが、呻き声を上げて、たちどころに灯火が増えていく街並みを眼下に眺めやる。この分だと、この殺人的な近所迷惑な騒音は、伝説通り遠くグルファストまでも届いたかもしれない。
グルファスト王国の王族にのみ伝わる、爆音の護符。
伝説の男性合唱団・グルファスト三十二歌神がカイロック山の大洞窟の奥で全身全霊を込めて歌い、それを音の護符師と呼ばれるバルメチール老師が封呪した、極めて貴重な護符である。有事の際に解呪することによって、遥か彼方にまでその危機を知らせることが出来るもので、インヴェガ帝国との戦いの時に重宝されたと言われる。彼女は、インヴェガ帝国の国家機密に近い魔獣創造施設についてソルが知っていたことが、ずっと気になっていた。敵国のグルファスト王国でも、その存在についての知識を有する者は、ごく限られた一族のはずだ。つまり……。
「先生、それよりも女神竜の方を!」
「おっと、そうだったわね、ソルくん!」
未だに鳴り響くコーラスの衝撃からやや立ち直った彼女は、すぐ間近の巨大な顔に目を向けた。
「よし!」
予想通り、今まで固く閉じられていた怪物の瞼が、ごく薄っすらと持ち上げられ、こちらを一瞥していた。その一瞥こそが、魔獣の命取りとなった。
「うがあああああああああ! おのれ、エリザス! またしても!」
なんと、魔竜の口から人間の女性のごとき叫び声が上がったかと思うと、青白く輝くその身体は、たちまちきらめきを失って、以前と同じ石灰色と化していく。石化の法が成ったのだ。
「ぐおおおおおおおおおおお!」
浮力を無くしたその巨体は、90メートル近くの高さから、見る見るうちに地上めがけて落下していく。やがて、護符による大合唱以上の轟音を立てて、哀れな石像は大地に激突し、粉々に砕け散った。
「エレンタール姉さん、ごめんね……」
普段は飄々としている女教師も、その魔眼に熱い涙を湛えていた。
「しまった、先生! プリジスタはちゃんと逃げたんですか!?」
「……へ?」
余韻に浸る間も無く、ソルの一言に、ダメ人間、もといダメデューサは現実に引き戻された。
少年が心配した通り、プリジスタはその直前まで、未だに匍匐状態のまま、庭園に残っていた。おかげで護符が発動した時その方角を見ずに助かったが、魔竜の大絶叫を真上に聞いた時、事情を察して青ざめた。
「うがあああああああああ、おのれ、エリザス先生! 私まだいるのよ!」
奇しくも魔竜とほぼ同じような内容の悲鳴を上げながらも、急に身体を起こせるはずもなく、ほぼ完全に詰んだと思い、半ば諦めかけていた。だがその時、救世主が現れた。何者かが、学生宿舎の入り口から素早く走り出ると、潰れたヒキガエルのように地面に腹ばいになっているプリジスタに駆け寄り、そのまま彼女を持ち上げて、校庭の方まで運び去ったのだ。二人が庭園を脱したのと、女神竜像が落下したのは、ほぼ同時であった。
「やれやれ、あなたはやっぱり私がいないとダメなようですね、プリシスタ」
「そ、その声は……!」
お姫様抱っこされたプリジスタが面を上げると、先ほどまで石像状態だった親友の顔がそこにあった。
「リオナ! あんた石化が解けたのね! よかった!」
「おっと、首根っこに抱きつかないでください。あなた結構重いんですから」
悪態をつきながらも、珍しくリオナの目は笑っていた。
「その慇懃無礼な口ぶりも変わらないわね! でも今は許してあげる! 助けてくれてありがとう!」
「いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます。私を元に戻すため、四苦八苦してくださったんでしょう?
石像になっても意識はありましたし、途中からのことは、宿舎の窓から見ていましたから、なんとなく想像はつきましたよ」
「相変わらず察しがいいわね……」
「しかし、せっかく治してもらってなんですが、私は今夜のうちに符学院を去らねばなりません。一旦さようならです、プリジスタ」
「ええっ、なんでよ!?」
いきなりの衝撃的発言に、思わずプリジスタはリオナの両腕からずり落ち、校庭の赤土に尻もちをついた。
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