カルテ197 運命神のお告げ所(後編) その13

「くっ……せめて強力な護符が一枚でもあれば……」


 つい愚痴をこぼしてしまうも、無い物は如何ともし難く、かといってこの窮地を脱する妙案は、さすがにすぐには浮かんでこない。このままみすみすダイドロネルを、いや、それどころか自身までもが悪しきミノタウロスの手によって、どこか遠くの見知らぬ異国の地に連れ去られてしまうのかと想像すると、吐き気がこみ上げてきた。


 だが、そんな悲嘆にくれる彼女の元に、「ルセフィさーん、そこにいるんですかー?」という聞き慣れた女性の声が天の恵みのごとく響いてきたため、バンパイアの少女は思わず耳を疑った。何とか視線を声の方に向けると、ランプの微かな光と共に一人の人物が山道をこちらに降りてくる姿が影法師のように目に映った。


「フィズリン!? どうしてここに!?」


 確か先ほどトイレの前で、倒れていたアカルボースを宿泊所まで連れ帰るよう、フィズリンに頼んだはずだ。どうやら暗闇の向こうから近づいてくるのは彼女一人のようだが……。


「アカルボースさんは無事送り届けましたけど、奥さんのリルピピリンさんの容態が急に悪化し、息苦しさを訴えていたので、何はともあれとにかくルセフィさんを一旦連れ戻しに来たんですよ!」


 風に乗って徐々に迫ってくる声音は心なしか緊張の色をはらんでおり、いつもより若干甲高かった。


「何ですってっ!? それって大変じゃないの!」


 ルセフィは自身の危機的状況にもかかわらず、つい声を張り上げた。


「そうなんですよ! ここって治療に関しては何の施設もないし、薬草師もいないし、頼りになるのはルセフィさんだけなんです!」


「でも、たとえ私が行ったところで、何の役にも立たないと思うけれど……」


「そうかもしれませんけれど、でも、ほら、あのお告げがあったじゃないですかー!」


「あ、ああ、あのことね……」


 そこでルセフィは、ようやく例の「ヨメニイノチノキキオトズレシトキ、アオキボウシヲマトイシヲトメノクチヅケヲウケヨ、サレバスクワレン」というお告げの言葉を思い出した。あれは確かに意味不明で理解不能な代物だったが、一縷の望みの綱として、哀れな穴兎族の夫婦が藁にもすがる思いで彼女に助けを求めようとしたのだろう。つくづく不運続きの一家ではある。


「っていうか暗くてよく見えませんが、ルセフィさんはさっきのアカルボースさんみたいに地面に寝転がっているようですけど、一体どういった風の吹き回しですか? 確かにバンパイアは風邪ひかないとは思いますけど……休憩ですか?」


「違うわよ! あなたが来るちょっと前まで子ウサギを拉致したミノタウロスっていう牛頭の怪物と白熱の戦いを繰り広げて、隙を見てなんとかコウモリに化けて奪還したんだけれど、姦計にはまって落っこちちゃったのよ!」


 ルセフィは青白い顔を赤らめそうになるくらい力んで弁明した。


「……はぁ、よくわかりませんが、つまりはやられちゃったってわけですか?」


「言いたくないけどそうともとれるわね……本当に言いたくないけど。とにかくダメージを受けて身体が痺れていて、残念ながら今動くことが出来ないのよ。ダイドロネルくんは無事だけれど」


 ルセフィは敵に聞こえるのも構わず、現在の状況を手短にフィズリンに伝えた。どうせとっくの昔にバレバレだろうから。


「ええっ、それはまずいんじゃないですか? ダオニールさんとテレミンさんはお近くにいないんですか?」


「彼らは私が到着する前に、あの獣に谷底に突き落とされちゃったのよ。多分生きているとは思うけれど……」


「……」


 フィズリンは深淵を覗き込んだような表情を浮かべ、息を呑んだ。

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