カルテ202 運命神のお告げ所(後編) その18
「おそいがな! 心配したぞってぐぼおおおおおおおーっ!」
「パパーっ!」
ようやく眠りの札の効果も取れ、今や遅しと待ち構えていたアカルボースは、ノックの音で宿泊所のドアを開けたとたん、愛する我が子の突進を腹部にもろに喰らい、盛大にえずいた。
「アカルボースさん! リルピピリンさんは!?」
「お……奥のベッドだ……は……早く……」
うめく父親ウサギを後にして、ルセフィは先陣を切って室内に駆け込むと、質素な二段ベッドの下段で荒い息を吐く母親ウサギの元へと急いだ。
「ハァッ、ハァッ、ル……ルセフィさん……息子は?」
「ダイドロネルくんならこの通り無事です! それよりリルピピリンさん、とっても顔色が悪いんですけど、大丈夫ですか!?」
「な……なんとか……でも、息子が助かって、本当に良かった……ありがとうございます……」
枯葉が擦れあうようなカサカサの掠れ声で苦し気につぶやく姿からは、とても大丈夫な様子は読み取れなかった。顔色も、バンパイアのルセフィの方が健康に思えるくらい青ざめ、目も耳も唇も、全てがアジサイの如き紫色に染まっている。
「ど、どうすれば……」
あまりにも重篤な様子についうろたえそうになるも、「ルセフィ迷うな! お告げの言葉を信じろ!」「そうですよルセフィさん! 人狼族のことわざにも、『汝、送られ狼になろうとも、決して送り狼になるな』というものがありまして……」「意味が全くわからないのでダオニールさんは黙っていて!」ゲシッ「ぐぎゃっ! す、すいません……」など、仲間たちの叱咤激励や、それ以外の騒動に背中を押しされ、ルセフィは唇をきつく噛みしめると、一歩前に進み出た。
「ルセフィさん……いいんです……私のことなど」
「遠慮しないでください、リルピピリンさん。何も心配いりません。きっと上手くいきますよ」
呼吸の必要ないバンパイアにも関わらず、まるで深海に潜るかのように大きく息を吸い込むと、ルセフィは身を屈め、黄昏時の空にも似た紫色の唇に、瑠璃の匙のようなぷっくりとした自分の唇を押し当てた。
「……」
一同は固唾をのんで、聖なる儀式もかくやといった二人のくちずけの行方を見守る。しかし、いくら時が過ぎようが、リルピピリンの顔色が改善する兆候は微塵も現れず、奇跡の顕現はついぞ訪れる様子はなかった。
「やっぱり駄目なのかしら……いっそこうなったら……」
生来の鳶色に戻っていたルセフィの双眸が、彼女の絶望感とともに徐々に暁の空のごとき朱色に染まり始める。そう、いっそこの穴兎族の女性の血を吸い吸血鬼化してしまえば、リルピピリンは自分同様持病で苦しむことは今後一切無くなるだろう。それこそが予言の正しい解釈なのではないだろうか?
だが……
「やめるんだ、ルセフィ!」
少年の、心を締め付けんばかりの悲痛な叫びが、闇に堕ちかけた彼女を我に返らせた。そうだ、一旦バンパイアとなってしまったなら、この善良な母親ウサギも夜の世界の住人の仲間入りし、普通の生活を送ることは不可能となる。最悪、愛しい家族と永遠に引き離されるかもしれないのだ。家族との別離の辛さは、彼女自身が一番良く知っていた。目先のことに気を取られて、他人の一生を台無しにすることは決して許されない。
「……でも、だからってどうすればいいのよ、テレミン! 予言は成就しなかったじゃない! きっと私は『アオキボウシヲマトイシヲトメ』とやらじゃなかったのよ!」
「さっきも言ったじゃないか、少しばかり引っかかるところがあるって」
少年は落ち着いた口調で惑乱するルセフィをなだめると、叡智を湛えたスフィンクスのごとき瞳で彼女を見つめた。まるで、この程度のことは想定内だと言わんばかりに。
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