カルテ3 白猿の爪痕 その3

「あの……呼ばれて来たんだが……邪魔だったか?」


 痺れを切らしたミラドールが声をかけると、男は一瞬びっくりしたように椅子から数センチ浮き上がり、くるりとこちらに首を回した。


「ああ、すいません! 溜まっていたレントゲンをチェックしていたもんでしてね。立たせっぱなしでごめんなさい。どうぞ、そこの椅子に腰掛けてくださいね〜」


 能天気な返事は先ほどとは異なり、ミラドールにもよくわかる、ユーパン大陸の共通言語だった。


「うむ……」


 いささか毒気を抜かれた彼女は、勧められた通り、ソファーに腰掛けた。


「えーっと、エルフのミラドールさんですね。エルフさんを診るのは久し振りですな〜。初めまして。僕は医師の本多と申します。どうもよろしく」


「は、よろしくお願いします」


 意外と礼儀正しいモジャモジャ頭の挨拶に、無愛想なミラドールも、つい礼儀正しく答えてしまった。


「なんか出血が止まらないんですって?」


「うむ、森の中でヴァナラ……白猿と戦ったとき、爪で傷つけられた」


 そう言いつつ、彼女は自ら左手を軽く上げて見せた。まだ油断ならないところはあるが、どうもこの本多という男からは、悪い人間の印象は受けなかった。


「どれどれ、直接傷口を見せてもらえるかな〜?」


「あ、ああ……」


 しばし躊躇したものの、せっかくだし、物は試しと決心し、ミラドールはボロ布を自ら解いた。


「うーん、別に腫れたり、黒くなったりはしていないですね。毒が入ったとは考えにくいなぁ……」


「うむ、奴らが毒を持つなど聞いたこともない」


「なるほどなるほど。ところで普段はどんな物を食べていますか〜?」


「そうだな、野の草や果物、それに獣の肉などを食べている」


「失礼ですが、普段から血が止まりにくいってことはありますか?


 例えばえっちなもの見て興奮しちゃったときや、鼻くそほじり過ぎちゃったときに鼻血が止まらないとか……」


「いや、そんなことはないぞ。ちょっと切ったりしても、押さえておけばものの数分で止まる。あと、私はえっちなものなど今まで見たことはないし、鼻くそをほじったこともないぞ!」


 実際失礼な奴だな、とミラドールはちょっと憤慨した。


「そうですか……」


 本多は彼女の方も見ず、何やら思案している様子だ。こいつ本当に大丈夫だろうかと、彼女はやや不安になってきた。


 その時、ノックもせずにドアを開け、受付嬢ことセレネースが入室してきた。


 彼女は無言のまま、右手に握りしめた紙片を本多に手渡すと、そのまま風のように去っていった。


「相変わらずツンツンだなぁ、セレちゃんは。造るとき失敗しちゃったのかな?……あっ、そうだ。ミラーボールさん、あなた、今の娘にそっくりな人に会ったことってあります?」


 唐突な本多の質問に対し、ミラドールは名前を間違えられたことにも気づかず、「い、いや、特にないが……」とのみ返した。


「そうですかぁ〜、いいっスよ、忘れてください。それにしても、もう検査結果が出揃いましたか。やっぱ高い金出して買った最新機器は違いますねぇ〜、どれどれ……?」


 彼は吹けば飛ぶような小さな紙切れを王からの書状の如く大事そうに伏し拝み、ふんふんと頻りに頷いている。


「血算は特に問題なさそうだし、血小板減少性紫斑病や、再生不良性貧血じゃなさそうだな。APTTも正常だし、血友病も違うわな。ま、急に易出血になったんだし違うに決まってるってか……んん?」


 その時、彼は何か発見したらしく、糸目を大きく見開き、口角をニヤリと押し上げた。


「お嬢さん、ひょっとして、ひょっとしてですがね……腐ったクローバーとか食べませんでした〜?」


「!」


 刹那、ミラドールは左手の疼きも忘れ、心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。


「な……何故わかった!? 貴様は異能の力を持つ化け物か!?」


 思わず彼女はソファーから立ち上がり、流れ出る血にもかかわらず、左腕を振り上げていた。


 遠い北の果てには、人の心を読む能力などを有する悪魔たちが封じ込められていると聞いたことがある。


 この目の前の一見貧相な男は、魔法か何かで角や尾や翼を隠しているのではないのか?


「おっと、図星でしたか? いやなに、ごく簡単なことですよ〜」


 彼はミラドールの威嚇にもかかわらず、にやけた表情のままだった。


「先ほどの採血結果で、プロトロンビン時間、略してPTだけが延長していたんですよ。あなたは先ほど、『野の草や果物、それに獣の肉などを食べている』って言われたし、壊血病は考えにくい。ということは、『野の草』−クローバーが怪しいと思いましてね〜。あれって、こちらの世界でも食べる人結構多いですから」


「しかし、どうして腐ったそれと限定できるのだ?」


「そうですね、一つこちらの世界−地球の昔話をしましょうか」


「こちらの世界だと? ここはユーパン大陸ではないのか?」


「実は今この瞬間、ここ本多医院は二つの世界に跨って存在しています。一つはあなたの住むユーパン大陸を含む世界に、そしてもう一つは僕の住む地球を含む世界に。ここはいわゆる次元の狭間なのですよ。どちらにも存在し、どちらにも存在しない」


 本多の顔はいつしかやや引き締まり、真面目な雰囲気を醸し出していた。


「じげんのはざま……?」


「はっきりしたことは僕にもわかりませんがね。それはさておき、昔話でしたね」


 彼は一つ咳払いをし、喉の調子を整えると、「それでは始まり始まり〜、昔々あったげな……」と、奇妙な話を始めた。

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