カルテ68 人狼の秘湯と幻の月 その4

 開いた戸口から差し込んでいた月明かりがいつの間にかすっかり消え失せていた。テレミンは苦労して部屋の隅にあるランプに灯りを点けながら、思考を巡らし続けた。もし自分がルセフィの下僕と化したとして、彼女を対等に好きだと言える感情は残っているのだろうか? そもそも高貴な存在を自負する吸血鬼に人を愛するという人間的な心は存在するのだろうか? それがわからない限り、今一歩踏み込んで決心することが出来なかった。


 かといって、ルセフィを救うため、全く無関係の他人を生贄とすることもさすがに躊躇われるし、それは彼女自身も望まないだろう。あの山荘の一件にしても、彼女は遺体の膵臓を利用するなどして、極力余計な被害者を出さないようにしていた(まぁ、ダオニールを殺そうとはしたけれど、失敗に終わったのでノーカウントでもいいだろう)。今なら、「君の膵臓をすり潰したい」と彼女に言われれば、かつてダオニールが即答したように、自分も、「はい!」と答えられる自信はある。だが、吸血となると、単に死ぬわけではないし、一筋縄ではいかない。


「ちくしょう、一体どうすればいいんだ……!?」


 悩める少年が再び思いを口にしてしまった時、戸が動いて、当の悩みの種の張本人が戻ってきたため、身体中が心臓に化けたかと思った。


「お、お帰り、早かったね。月はどうだった?」


 なんとか平静さを装い、沈んだ顔をしたルセフィに問いかける。


「ダメね。ガスが空にかかって、全く見えなかったわ。どうやらカルフィーナにも見放されているみたいね、私」


 吸血鬼の令嬢は薄く笑うと、月に住まうという運命を司る神への愚痴をこぼした。


「そうか、僕が風呂に浸かっていた時はまだ晴れていたのにね。まぁ、山の天気は変わりやすいから……」


「別にいいわよ。月なんていくらでもまた拝めるでしょうし。それにしてもこの身体になってから、睡眠が出来なくなったのはちょっと辛いわね。横になっていると、つい色々考えてしまうし……」


 不死の少女はぶつくさ言いながら、枕代わりの黒い袋の位置がやや曲がっていたため、真っ直ぐに直した。鬱屈した思いを抱えながら、見るともなしにその姿を眺めていたテレミンは、ふと袋の膨らみに気がついた。あれは確か、白亜の建物から往診に来たひょうきんな医師が、彼女に置いていった物だとは聞いているが……。


「ねぇルセフィ、その中には何が入っているの?」


 彼の何気ない調子の質問に、少女は寝床を整える手を休め、その黒い物体に目を落とした。


「この袋のこと? 確か本多医師からの手紙と、護符が数枚と、あと、奇妙な黄色い液体の入った袋みたいなものが入っていたの。それに関しては何も書いてなかったし、どう使うものか全くわからなかったけれど、枕にちょうどいいので、利用しているんだけどね」


「奇妙な黄色い液体……?」


 テレミンは首を捻った。一体何のためにそんな代物を置き土産にしていったのだろう? ひょっとして果物のジュースか? そんなものが吸血鬼となった者に必要とは思えないが……。


 だが、あの医者は一見ボケていそうだったが、あっという間に全ての謎を解き、事件の裏に潜む真実をズバズバ言い当て、おまけにルセフィを死の国から救ってみせた。なんでも伝え聞くところによると、彼は治療するだけではなく、患者たちのその後のことまで考えてアドバイスしてくれるとのことだった。彼女の母親に注射器を渡し、インスリンの抽出法を教えたことなどが、まさに良い例だ。きっと、その液体とやらにも深い意味があるに違いない。


「ちょっと中を見せてもらってもいいかな?」


「え、ええ、いいわよ」


 突然の申し出に、ルセフィはやや躊躇するも、結局袋を開いて中身を開陳してくれた。彼女の言った通り、汚い字で羊皮紙よりも薄い紙に書かれた手紙と、色とりどりの護符が5枚、そしてなんとも不思議な透明な袋に入った黄色い液体が寝台の上に姿を現した。


「護符は、光の札や、火の札などみたいだね」


「ええ、私のお母様の護符とは字体が全然違うし、他の人が造った物っぽいけれどね。これならあなたにも使えるんじゃない?」


「そうだね。しかし確かにこの液体は謎だね。うーん、無駄な物をわざわざ入れたとは思えないんだけど……そうだ!」


「えっ、ど、どうしたの?」


 突然少年が寝台を後にし出口に向かって駆け出したため、彼女も慌てて後を追った。


 「ルセフィは残っていて! ちょっと長風呂しているダオニールさんを呼んでくる!」


 テレミンは背後に言い捨てると岩風呂目指して猪突猛進していった。

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