カルテ252 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その33

「……いえ、すいませんが全く知りません」


 彼女は気を取り直すとそう、無難に答えた。


「そうですか。実を言うと、僕も名前はちょっと失念しちゃいましたけど、彼女の夫も診察の時同席されまして、自分の父親の死因となった病気について色々聞かれたので、どうやら食道癌らしいと教えてあげたんですよ。ついでに僕の無駄話にも熱が入っちゃって、抗がん剤に関して一席ぶっちゃったんですね。つまりマスタードガスについても、世界初の抗がん剤なわけですから、きっと触れたはずです。恐らく魔女さんはそのことを念頭に置いておられたんじゃないかと思いますよ。あなたにこの村に残れと言明された時」


「……」


 またも静寂が波紋のように室内に広がる。エナデールは口を半開きにしたまま絶句していた。師匠の真意が奈辺にあるのかようやく理解できたためだ。別れの時、彼女は「大丈夫、あなたは自分で思っているよりも素晴らしい可能性を内に秘めています」と告げたが、あれはそういうことだったのだ。

 人々に塗炭の苦しみを味わわせる呪われた毒竜の力を、正反対の治療の力に用い、全てに見放された救われぬ人々を癒せ、と。


「先生、お教えください! 私の魔獣の能力で、あの少年の命を助けることはできるんでしょうか!?」


「うわわっと、ちょっと落ち着いてください!」


 今まで物わかりの良い聞き手役だったエナデールが突如豹変し、抜き差しならぬ表情で迫ってきたため、本多は危うく手にしたペットボトルを取り落としそうになった。


「……す、すいません。つい焦ってしまって……」


「いやいや、いいってことですよ。そうですね、あなたはドラゴラム、もとい竜に変身した時、子供の細い血管に毒液を注入することはできますか?」


「……え?」


 本多の発する珍問に再び固まりかけるも、彼女は咄嗟に脳内で竜化時の状況を検討した。魔女との戦闘中、魔竜は長くて細い銀髪を針のごとく随意に硬化し、毒拡散の武器として使用していた。


「……多分できるんじゃないかと思います。髪の毛の先から、ガスでも液体でも毒を出せましたから」


「ほほう、そいつは重畳ですね! では、毒の濃度を調節したり、少しばかり毒の組成を変えるっていうのはどうですかね?」


「……それは、さすがにやってみないと分かりませんが、まあ、頑張り次第では可能かも……」


 本多の要求水準がどんどんエスカレートしてきたため、困惑気味のエナデールは自信なさげに語尾を濁したが、彼女の心中に燃え盛る魔獣の魂が、どんな過酷な要望でも応じてみせると豪語していた。


「わかりました。急性リンパ性白血病の治療では、ステロイドという免疫力を抑える薬と抗がん剤を組み合わせるやり方が基準となります。うちには生憎抗がん剤はありませんが、幸いステロイドはありますし、小児の場合はこれだけでけっこう長期生存する可能性が高いので、試してみる価値はあると思います。よーし、いっちょやりましょう!」


 本多の垂れた眉が跳ね上がり、決意のこもった熱い眼差しでエナデールを真正面から見つめた。彼女は一瞬彼の背後から光輝が差すような錯覚に襲われた。


「……はい、よろしくお願いいたします!」


「しかし治療のプロトコル、つまり約束事や、抗生剤の使用など、覚えなければならないことは山とあります。更に抗がん剤の副作用は感染症、出血、貧血、口内炎、嘔吐、脱毛など多岐にわたり、慎重に使用せねばなりません。今から時間の許す限り猛特訓を開始しますから覚悟してくださいねー、ドラゴンさん!」


 本多はすぐにサディスティックな口調に変わると、傍らのレンガのように分厚い医学書をドンと叩いた。

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