カルテ226 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その7

「それじゃあ、私はもう出かけるから後はよろしくね、エナデール」


「……えっ、もう行かれるんですか、先生!?」


 そのままビ・シフロールが踵を返し、崩壊しかかっている村の門に急ごうとしたので、今までぼんやりと聞いていた不肖のにわか弟子は戸惑って、フードが外れそうな勢いで振り向いた。


「だってもうすぐそこまでアレが近づいているのよ。仕方ないでしょう?」


 わずかに反転した師匠は、両手の人差し指をそれぞれまっすぐ伸ばすとクロスさせた。


「あっ、十字の……!」


 師事すると誓った時に彼女から聞かされた、伝説中の伝説の存在が脳を刺激し、額の傷口が急速に熱くなった。


「そういうこと。一期一会の運命を大事になさい、エナデール。大丈夫、あなたは自分で思っているよりも素晴らしい可能性を内に秘めています。これからどんな辛いことや困難が待ち構えていようと、くよくよせず、挫けず、自信を持って生きていきなさい。師である私のように」


 そう言い残して立ち去ろうとするも、すぐに、「あっ、そうだ、大事なものを忘れていた!」と即すたすたと引き返し、カバンの中から小さな赤い布袋を取り出すと、エナデールのローブのポケットに有無を言わさずねじ込んだ。


「こ、これは……?」


「護符です。私お手製の貴重なものばかりですよ。どうしても困ったことが起きた時は使用を許可するので、大切にしてください」


「あ、ありがとうございます、ビ・シフロール先生……」


「それにしても本気で時間が無くなってきましたね。出来るだけ急いで立ち去らねばなりません。では、お元気で。ああ、そうそう、私の本名は実はルナベル・エバミールっていうんですよ」


 別れ際に大輪の向日葵の如き笑顔を愛する弟子に手向けると、ビ・シフロールことルナベル・エバミールはすぅっと大きく息を吸い込み、「フシジンレオーッ!」と意味不明な言葉を天頂に向かって大声で呼ばわった。


「……な、なんですって? フシジンレオ?」


 訳も分からずエナデールが聞き返した時、突如激しい突風が村中を襲い、そこらじゅうの砂や埃を舞い上げて、全てを灰色に染め上げた。


「う、うわ、何だ一体!?」


「ま、前が見えねえ!」


「また何かの災いの前触れか!?」


 視界を閉ざされた村人たちが慌てふためき右往左往している瞬間、元銀竜である彼女のみはしっかり視認することが出来た。背中から大きなコウモリに似た翼を広げた赤毛の獅子が、紅塵の渦中に舞い降りると、自分の大切な師匠を素早く身体に乗せ、再び大空に向かって矢のように突き進んでいく姿を。


(あれは確か……インヴェガ帝国の魔獣創造施設を破壊し脱走したマンティコア!?)


 エナデールが終始眠たげだった半眼を満月のようにまん丸く見開いた頃には、既に砂ぼこりは収まり、その場には赤毛の魔獣と赤髪の魔女の姿は幻の如く雲散霧消していた。


「さ、さすが伝説の魔女様だ……一瞬で消え失せるとは……」


「凄すぎる……護符すら使わずに、一体どうやって……」


 残された群衆は、ただただビ・シフロールの奇跡の御業を称賛し、彼女に深く感謝と尊敬の念を捧げていたが、エナデールはただ一人、あまりに青すぎて遠近感を失った空の彼方に小さくなっていく一点をずっと見送っていた。遥か遠くから、「まったく老人使いの荒い魔女様じゃて……」という愚痴がかすかに響いてきた気がしないでもなかったのだが。


 燦然と輝く白亜の建物がポノテオ村の広場に出現したのは、魔女が消失してから一時間も経たない昼下がりの時分だった。

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