カルテ16 酒とドワーフと嫌な風 その4
雲一つない晴天の下、石舞台に集まったヨーデル村のドワーフたちは、世紀の飲み比べ対決の行方を、固唾を飲んで見守っていた。
「へへっ、逃げ出さずによく来たじゃねぇか、バレリンさんよ。だが言っとくが、ここじゃ一切のズルは出来ねぇからな!」
全身が四角形から出来ていそうな厳ついガストロームが、舞台中央に設えたテーブルの前に座ると、力こぶを見せつけながら胴間声を張り上げ威嚇する。
「それはわしの台詞じゃよ。お前さんこそわざと負けて、わしに勝ちを譲らんようにな」
一方バレリンは、昨日の焦燥ぶりは何処へやら、神官のように泰然自若として、彼の対面に着座する。彼らの前に、ヨーデル村一番の髭面の美女ゾテピンちゃんが、エール酒がなみなみと注がれた木製のコップ二つを運んできた。
「ウオオオオオ!」
周囲の興奮は最高潮に達した。
「ガストローム、遠慮はいらねえぞ、負けちまえ!」
「頑張っていつもみたいにとっとと負けろ、ガス!」
「勝とうとすんなよガス! もっともお前さんがバレリンに勝てるわけねーから安心してるけどな!」
会場中によくわからない声援(?)が飛び交う。確かに本日の勝負は前代未聞の、「負けた者勝ち」 という代物だったので、自然、観客たちも真剣にならざるを得ない。何しろ観ている全員が審判なのだから。
石舞台の上に立った長老が、コホンと一つ咳払いをすると、一同は一旦静まり返った。
「では、只今よりバレリンとガストロームの飲み比べを開始する! 正々堂々、不正なきようにな! そしてこの勝負は、敗者の望みに従うこととする!」
割れんばかりの拍手と歓声が、山脈全体を揺るがしかねないくらいに大気を振動させた。凄まじい熱気の元、両者とも手にしたコップを口に当てるとぐびぐびと音を立てて一気に飲み干した。ここでゆっくり飲むようでは、早速不正の烙印が押されてしまうだろうし、これは当然の展開である。
すかさず運ばれる二つのコップ。酒場の看板娘のゾテピンちゃんの配膳スピードも半端じゃない。こうしてしばらくは、どちらも全く同じピッチで黙々とエールを消化していった。
しかし、三杯目を過ぎた辺りから、バレリンの様子が怪しくなってきた。瞳はどろんと淀み、吐く息は荒く、顔面が異様に紅潮している。普通だったらあり得ないことだ。
「どうしたんだ、バレリン!? お前が勝つ方に賭けてんだぞ、しっかりしろ!」
「俺なんか女房を質に入れてるんだぜ!」
会場から無責任な野次が上がるが、彼は徐々に青息吐息となり、座っているのも苦しそうな表情となった。そしてついに限界が訪れた。彼は口元から滝のように黄金色のゲロを噴き出すと、テーブルに突っ伏して、意識を失ってしまったのだ。
「酒……つまりアルコールっていうのは、体内でどんどん分解されて、無害な物質になります。この分解にアセトアルデヒド脱水素酵素っていうやつが必要になるんですが、こいつを邪魔すると、いつまでも酒が抜けきらない状態となって、悪酔いしてしまうんですよ。んで〜、このシアナマイドって薬は抗酒薬っていいまして、アセトアルデヒド脱水素酵素の働きを阻害するものでして、たとえうわばみの飲兵衛の大虎の酒豪でも、内服すればたちどころに酒に弱くなっちゃって、飲み会に行っても三次会まで爆睡しちゃうようなもやしっ子にしてしまう、魔法の薬なわけなんですね〜」
ふざけた医師は、手に持った薬瓶を振り子のように揺らしながら、こう講釈を垂れた。
「そ、それは素晴らしい! 是非ともくれぃ!」
「ですが、酒に弱くなった身体にアルコールを入れるってことは、非常に危険でもありますよ〜。あなたには命を賭けてもいいという気概がお有りですか?」
「……」
暫し悩んだバレリンだったが、意を決して、竜のブレスの如く、喉の奥からこう叫んだ。
「元より覚悟は出来ておる! このまま利かぬ身体で満足がいかない気の抜けたエールを造り続けるよりは、わしは新たな道を選ぶ!」
「バレリン! 起きろ!」
顔面にエールをぶっかけられ、バレリンは唐突に夢から覚めた。ガストロームの髭面が、心配そうに覗き込んでいる。
「俺っちが悪かった。お前さんが本当に酒に弱くなっていたなんて知らなかったんだ。もう無理強いはせん。お前さんは好きな道を行け。誰も止めたりせんわい」
「ガス……」
胸にチクリと罪悪感の棘が刺さるのを感じたが、バレリンはおくびにも出さず、ありがたく頷くのみだった。
翌朝早く、昨晩のうちにこっそりまとめた荷物を持ち、家族に内緒で家を出たバレリンは、商人と一緒にヨーデル村を旅立った。どうせ反対されるのはわかっていたし、誰にも知られずに行きたかったのだ。
「ワインですか。森の都ルミエールが名産だと聞きますね。あそこのを口にしたら美味しすぎて他のワインは飲めませんよ!」
「よし、まずはそこを目指すとしよう。その頃には足も治っておるじゃろうて。今日こそバレリンワインの門出となる記念日じゃ!」
のんびりと馬車に揺られながら、バレリンは未だ見ぬ酒に想いを巡らせ、住み慣れた故郷に別れを告げるのだった。紺碧の空の下、彼を見送る雄大なるガウトニルの峰々は、次第に遠ざかっていった。
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