カルテ239 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その20
そのまま、誰も動くものはなく、鍾乳洞の大広間に沈黙が落ちる。エリザスは死の覚悟を固め、精一杯の虚勢を張りながらも、いつ自分の身体を千のナイフで切り刻まれるような激痛が襲うのか、気が気でなかった。
(せめて丸呑みにしてくれないかしら……でも、そっちの方が息絶えるまでに時間がかかって苦しいような気もするし……だけど窒息して意外と早く逝っちゃうのかしら……うーん、どんな食べられ方が一番楽に現世にさよなら出来るものやら……誰もそんな究極のテーブルマナーは教えてくれなかったしね……)
いくら考えてもどうしようもないことを駄メデューサが悶々と考察し続けていた時である。
「ウフフフ……」
どこかから、おかしさを押し殺したような含み笑いが聞こえてきたので、エリザスは亡霊に出くわしたかのようにギョッとした。遥か遠い過去から響いてきたかのようなその声は、なんと両眼の瞼を柔らかく閉じた、巨竜の形の良い唇から漏れ出ていたのだ。
「あなたは今も昔も変わらず早とちりのおっちょこちょいですが、優しく情け深い点も一緒ですね。ま、勘違いするのも無理はありませんが、私はビ・シフロール様の弟子となって以来、人肉を食べたことなど一度たりともありませんよ、エリザス」
初めて銀竜が口を利いた。その穏やかな声は紛れもなく、エリザスの長姉エミレースのものだった。狂気に侵されているとはとても考えられない、理知的かつ、妹想いの甘酸っぱい声音は、あたかも夏の日の黄金の果実のよう。
(……いけない、巧妙な罠かもしれない)
今まで散々な目にあってきたため疑惑の心を捨てきれないが、それでもエリザスは姉が正気であることを心の奥底で確信した。なぜなら、天井に頭が届くほど大きな竜の柳眉が右側だけピクリと上がったからだ。あれはエミレースが何かとっておきの素敵な隠し事をしている時の、妹に対する合図だったから。
つまり、現在意識を失くして横たわっている幼い少女には、何やら事情があるということなのだろう。髪の毛が突き刺さっているのも、単に傷つけているだけではないのかもしれない。
「でも、じゃあ、どうして……」
エリザスが、なおも問いかけようとした時だった。岩肌をカツンカツンと叩く無数の靴音が入り口の方向から響いてきたかと思うと、
「おーい、そんなに急がんでくれー! 滑りそうじゃー!」
「そうだぞ、そもそも俺はお前みたいに暗いところで目が効くわけじゃねーんだし」
「何情けないこと言ってるニャ! エリザスがピンチかもしれないニャ!それに伝説に残るサーガが書きたいんじゃないのかニャ!?」
「おっと、そうだったわ。俄然やる気が湧いてきたぜ!」
「お主も結構単純な奴よのう……」
などという、早朝からピーチクパーチク鳴きわめく小鳥たちのようにうるさい言い合いも随伴した。
「な、なんで彼らがここに来るわけ!? 大人しく待っていてって言ったのに……」
想定外の出来事に驚いたエリザスは、なんとか人間形態に変化しようと心を静める努力をするも、気ばかり焦ってちっとも上手くいかない。そうこうしているうちにも足音の反響はたちどころに大きくなり、もう目と鼻の先まで近づいている様子だった。
「皆来ないで! 私、今、メデューサなんだから!」
洞窟内全体に、壁が崩壊しそうなほどの特大の咆哮が木霊したのと、ダイフェン、ランダ、バレリンの三人が例の大カーブを曲がり切ったのは、ほぼ同時だった。
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