カルテ214 ライドラースの庭で(前編) その4

「ビデュリオン・ケタス・オビドレル……」


 ジオールは節をつけながらあたかも歌うように文言を唱えつつ、一心不乱に己が信奉する神を念ずる。日の光は次第に赤から乳白色へと色調を変え、毛布をかけるがごとく床面を柔らかく包み込み、チェック模様にも似た格子状の影を彼らの上に落とす。古代の森の木漏れ日を彷彿とさせる光芒は祈り続ける大神官をすっぽりと覆い、彼自身を一個の神聖な彫像のように見せていた。


 やがて、太陽が産み落とした光のさざ波のように美しくかつ優しげな声が、ジオールの鼓膜にではなく、脳内に直接かすかに聞こえた。


『ドグマチール担当の神官長ジオール・カデックスよ、何事ですか?』


「おお、我が神ライドラース様!」


 神との接触の成功に喜んだあまり、ジオールは思わず実際に声を出してしまった。それも、喉の奥底から。


『口で話さずとも心で念ずれば聞こえます。どうしましたか?』


『申し訳ありません、慈愛神様、実は当神殿に出入りしている行商人のパム・ドルナーなる中年男性が、旅路の途中でイノシシに襲われ右大腿部に深い裂傷を負ってしまったのです。どうか、慈愛神様の御手にて彼に癒しの奇跡をお授けください』


 ジオールは居住まいを正すと誠心誠意を込めて、心中で神と対話した。


『……』


 しかし返ってきたのは凪のように長い沈黙であった。常ならぬ反応を訝しみ、ジオールはつい、『いかがなされましたか、ライドラース様?』と遥か彼方の玉座に座すといわれる超常の存在に、愚かにも再び心の声をかけてしまった。


『その前にジオール、あなたは私に対し、何か隠していることはありませんか?』


 愛情のこもった神の声が突如氷のように冷たく変貌する。その凍てついた響きは抜き身の剣のごとしで、もし偽りを述べようものならたちどころに首と胴を生き別れにさせるほどの凄みを帯びていた。


『い、いえ、何も隠し立てするようなやましいことなどございません!』


 不意の追求にうろたえ心の臓が止まりそうになったジオールだったが、禿頭を床に擦りつけんばかりに伏し拝み、必死に釈明を試みた。


『そうですか、ならば良いのですが。あなたもかねて知っての通り、私の神眼は誤魔化せませんよ。もし万が一身に覚えがあるのならば、今後自重するように。よいですね』


 ライドラースはあっさり矛先を収めると、元の凪いだ海のような穏やかさと抱擁感に満ち溢れる声音に戻った。


『恐れながら、重ね重ね言わせていただきますが、心当たりは全くございません! 私はライドラース様の忠実なしもべです!』


 伏したままのジオールはなおもしつこく身の潔白を訴えた。慈愛神ライドラースはこの世の全ての生ある者を見守るため、世界の果てまでをも見通す神眼を持つと言われる。神像の右手に持つ球がその象徴だ。つまりいかなる悪事もこの神の前では丸裸に剥かれ、あざむくことなど到底できない。


『もうよいです。それより今からそこの商人の治癒を行います。邪魔しないでください』


『はっ、すいません! 出過ぎた真似をしました!』


 叱責を受けたジオールは、深く息を吸い、ひたすら心を無にするよう努めた。神殿内はまるで深山幽谷のように静まりかえり、コトリとも物音を立てなかった。天窓から斜に差し込む陽光は一段と白さを増し、今や眩しくて眼も開けていられない。祭壇の間は間違いなく神気に満ち満ちて、肌が痛く感じるほどだった。少なくともジオールにはそう感じられた。


 刹那、静電気のような何かが室内を駆け巡り、奇跡が起こった。

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