カルテ31 山荘と冬の護符と亡霊騎士 その7

「すいません、私に開けさせて頂いてよろしいですか?」


 衣擦れのようにか細いが、凛とした気丈な声で、ルセフィがセイブルに申し出る。


「ああ、もちろん。どうぞ、お嬢さん」


 男爵は、執事が持ってきた部屋の鍵を大事な宝石のように、丁寧に彼女に差し出した。


「ありがとうございます。では……」


 ガチャっという金属音とともに、木製のドアが重々しく開かれると同時に、ルセフィは若い雌鹿のように室内へと駆け込んで行った。と同時に、鉄錆に似た独特の臭いが、その場に立つ全員の鼻腔を刺激し、嫌悪感を催させる。


「これは……血?」


 テレミンが端正な顔を歪め、闇のわだかまる室内を凝視する。


「お父様!」


 少女は既に、男爵の寝室と同じ天蓋付きのベッドのカーテンの中に入り込んでいた。残された一同も、彼女の後を追って次々とドアを潜り抜ける。


「う、うわーっ!」


 その時、今宵三度目となる絶叫が、死神の雄叫びのごとく閨の帳の奥から噴出し、皆の心臓を揉みしだかんばかりに震わせた。


「大丈夫ですか!?」


 姫君に仕える小さなナイトの勇気を持って、少年が呼びかけながらもカーテンを捲り上げる。そこには想像を絶する光景が広がっていた。


 ふかふかなマットの上に、布団を掛けずに臥床するエバミール子爵の表情は苦痛に歪み、しかも顔色は失せて土気色と化していた。その腹部は大きく横に切り裂かれ、はだけられた寝巻きどころかシーツまでをも真紅に染め、夥しい量の出血があったことを物語っていた。最早その魂が身体と切り離されているであろうことは、弱々しいランプの光源でも明らかであったが、傍らの愛娘は、まだ父の突然の死を受け入られらないのか、自分の服に血糊がつくのも構わずに彼の肩を揺さぶり、何事かを喚き続けていた。


「ルセフィ、しっかりして!」


 テレミンは酸鼻を極める状況に吐き気を催すも、なんとか堪えつつ、小さな姫君の背中をさすり、興奮を鎮めようと試みた。


「こ、これは惨い……」


 続いて現場に到着した男爵も太い眉をしかめ、他の者もあまりの凄惨さに口にすべき語句を脳内から拾い上げることが出来なかった。


「ぼぼぼぼぼ亡霊騎士ががががが子爵さまままままままを殺ししししししししし」


 横たわっている死者と同じかそれ以上にひどい顔色のフィズリンが、歯の根の合わぬ様子で声帯の奥から壊れた楽器のようなひび割れた音声を叩き出す。


「バ、バカなことを言うな! そんなことあるわけがなかろう!」


 激高した男爵が、不謹慎な台詞を吐くメイドを叱り飛ばす。


「しかし旦那様、恐れながら申し上げますと、子爵様を害したと思われる刃物がどこにも見当たりませぬが……」


 ダオニールが、地獄の底から轟くような陰々滅々とした響きを発し、一同の恐怖心を更に煽ることとなった。

 


 結局、部屋の隅々まで調べるも、凶器はどこからも発見されなかった。また、護符の類いも見当たらなかった。ただし、部屋の鍵はベッドの隅に転がっていた。ということは、エバミール子爵は、娘が部屋を出てから自分で鍵をかけ、その後三十分程の間に何者かに腹部を切り裂かれて殺され、犯人は凶器と共に消え失せたか、もしくは自分で割腹して自死し、使用した刃物は煙のように消滅したことになる。


 どちらも常識的に考えて有り得ないことだし、他殺はともかく、娘を残して自殺する理由がそもそもわからない。ただ、気になった点としては、子爵がいつも腰から下げていた護身用の短剣が、どこにも見当たらない、ということだった。


「この部屋には隠し扉などはないんですか?」


 先程の宝物庫の一件で半ば懐疑的になっていたテレミンが質問すると、「ない」と一言の元に切り捨てられた。


「もっとも暖炉用の煙突はあるが、とても人間が侵入できる大きさではないし、そんな形跡も認められない。窓もしっかり内側から鍵がかかっており、雪が舞い込んだ様子もない。わからん、犯人はどうやって子爵を弑し、逃亡したというのだ。そして、何故こんな目に……」


「あの、もしもですけど、何か、他人の恨みを買ったということは……」


 普段ははっきりと物を言うコンスタン夫人が、人が変わったように、恐る恐る意見を述べる。


「ありません、父に限って。とても温厚な性格で、誰に対しても分け隔てのない誠実な人でしたから」


 目を真っ赤に腫らしながらも、ひとしきり泣きわめいて落ち着いたルセフィが、しっかりした口調で鋭利な刀のようにきっぱりと反論する。


「お嬢さんの仰るとおりだ。子爵が殺される理由など、わしにも一つも思い当たらん。とにかく今は、御遺体を別の場所に移させていただこう。暖かいこの部屋では、遅かれ早かれ腐敗が進行してしまう。ダオニール、すまんが力を貸してくれんか?」


「お任せください、ご主人様」


 男爵と執事はそれぞれ頭側と足側から遺体を持つと、ドアを抜けて廊下へと運び、更に裏口を超えて未だ吹き荒れる屋外に出た。人々は、まるで葬式の行列のように、黙々とその後に付き従う。一行は直に、館の裏側にある薪小屋へと辿り着くと、戸を開けて、遺体を中へ運び込んだ。既に奥には、黒い布の掛けられたレルバックの遺体が安置されている。


「この吹雪のため埋葬はとても出来ないから、子爵には申し訳ないが、愚弟とともにしばらくこちらで休んでいただこうと思う」


 なんとか子爵の身体を横たえた男爵は、久々の運動に根を上げたのか、荒い息を吐きながら、汗を拭いた。


「それにしても、なんだか血の臭いがさっきより強くなった気がしますね。ここに来たのは五日前にレルバック殿のご遺体を運んだ時以来でして、あの時はこんなに臭いませんでしたが……」


 男爵よりは呼吸に余裕の感じられる執事が、自慢の鷲鼻をひくつかせつつ眉間にしわを寄せる。


「薪は十分館の中にもありましたから、私もここは久し振りなんですけど……あわわわわわ」


 さっきから怯えっぱなしのメイドが、幽鬼のような表情で震えだす。


「……まさか!」


 テレミンが、父親にかかっている屍衣代わりの布をバッと捲る。


「ぐわあああああああああああああああ!」


 そこに眠っている遺体は、上半身の服が脱がされ、なんと子爵のそれ同様に、腹部がぱっくりと割れて、血みどろの臓物が顔をのぞかせていた。

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