カルテ32 山荘と冬の護符と亡霊騎士 その8

 この日、ルセフィは一日中寝込む羽目になった。


 全員無言の朝食の後、疲れたので部屋に戻ると言い、あんなことがあったばかりの部屋よりは違う場所がいいのでは、と進言する男爵の言葉にも耳を貸さず、急にぐったりとし、その場に頽れた。眼を閉じ、ぶつぶつとうわ言を呟くのみで、四肢をだらんと垂らし、顔は青ざめ、いつもの気丈な様子からはとても想像できない彼女は、人形のようにひどく小さく見えた。


 ダオニールがすぐ彼女を抱きかかえて部屋に運び、子爵の遺体を動かして徹底的に清めてシーツ交換したばかりのベッドに彼女を横たわらせる。なんだか嫌な汗をかいているようで、しきりに「水、水……」と訴えているようだった。


「よっぽど心身ともに堪えたのだろう。なんとか休んで元気になってほしいが……」


 枕元で見守る男爵が、祈るようにつぶやく。


「慈愛の神ライドラースの神殿で寄進して頼めば、神の奇跡で怪我を癒してくれますけれど、病気は難しいですからね。こんな時、言い伝えにある、白亜の建物が出現してくれればありがたいんですけど……」


 同じく心配そうな表情で彼女を見つめるテレミンが、皆の心の声を代表するように、伝説の病める者の救世主について言及する。


「お父さん、お母さん……」


 ルセフィの苦しげなうわ言が、皆の胸をギュッと締め付ける。両親に抱かれている夢でも見ているのだろうか。ところが、次の瞬間彼女の口にした台詞に、皆、仰天した。


「父が言っていました……父と母は昔、白亜の建物、『ホンダイーン』を訪れたことがあるそうです……私が産まれる前に……」


「そ、それは本当なのですか?」


 濡れたタオルを絞っていたフィズリンが尋ねるも、ルセフィの意識は再び混濁していき、「はぁ、はぁ……」と荒い息継ぎが返ってくるだけだった。


 不安な面持ちの一同は、代わる代わる少女に付き添い看病したが、中々状態は改善しなかった。しかし深夜から様々な出来事があったためさすがに皆疲れて、夜中に一旦全員寝室に戻った。


 翌朝、真っ先にテレミンが訪室すると、ルセフィはスヤスヤと安らかな寝息を立て、小康状態となっており、目覚めた後は朝食も食べ、目に見えて回復していったため、皆をホッとさせた。だが、白亜の建物について話したことは何一つ覚えていないと言うのみで、建物を両親が訪れたことなどないとのことで、誰もそれ以上踏み込めなかった。



「ところで、一連の出来事の犯人についてはまだわからないのか?」


 その日の夕食時に、男爵は焼きたてのハムにかぶりつきながら、傍らに侍るダオニールに問い質した。


「誠に申し訳ありませんが、判明しておりません。レルバック殿のご遺体は、やや腐敗が始まってきたため、いつ狼藉者が腹部を切り裂いたのかははっきりとはわかりませんし、凶器も発見できませんでした。ただし、どうやら内臓に手を突っ込んで、グチャグチャとかき回したのではないかと思われる形跡だけはございました」


「グェっ」


 そこまで聞いて、男爵は口腔内のハムを吐き出しそうになったが、なんとかヨーデル村名産のエール・バレリンシロップで流し込み、食事中に聞いたことを後悔しつつも、気力を振り絞って、「それで?」と続きを促した。


「はい、更に奇妙なことには、薪小屋の隅に使われなくなった古びた木製の椀がしまってあるのですが、どうやらそれを何者かが使用した跡がありました。以前見たときは特に変化なかったので、明らかにここ数日以内のものと断定できます」しかも恐ろしいことには、椀の底には、何かがこびりついたような跡がありました。小生の嗅覚によると、どうやらそれは、人間の内臓をすり潰したもののような……」


 そこで座に着いていた男爵夫婦、テレミン、ルセフィの全員が嘔吐したため、食事は一旦中断となった。



「そ、そんな人間の臓物に手を加えて食べるなんて真似をするってことは、その異常者は亡霊騎士ではなく、昔ガウトニル山脈に住んでいたという人狼族ではありませんか?」


 言い伝えに詳しいテレミンが、えづきながらも自説を開陳する。


「いえ、それはあり得ません。人狼族には内臓をすり潰して食べるという習慣がありませんし、何より彼らは何十年も前に山狩りにあって全滅しております」


 ダオニールが、少年に向かってやけにきっぱりと反論する。


「何はともあれ、切り裂き魔がこの周辺をうろついていることは間違いない。各自、外に出るときは必ず複数で行動し、館内といっても油断せずに、気をつけて過ごすようにな」


 男爵は口元をハンカチで拭いながらも、何とか威厳を取り戻そうと、重々しい声で一同に告げた。



 こうして殺人鬼の影に怯えながらも、またしばらくは一見平穏な日々が続いた。


 しかし館の住人の間にわだかまる疑心暗鬼の黒雲は濃さを増す一方で、誰も口にしないが、ある一つの考えが、末期の重病人につきまとう死の影のように、いくら振り払おうとしても、頭の片隅を離れることはなかった。


 かつて伝承に謳われる、人間に化けて村人に紛れ込み、夜間に正体を現しては人を殺して喰らうという人狼族のごとく、生き残った6人の中に、人の皮を被った畜生にも劣る猟奇殺人鬼が潜んでいるのではないかという考えに……。

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