カルテ33 山荘と冬の護符と亡霊騎士 その9
エバミール子爵の陰惨な謎めいた死から、更に五日が過ぎたとある夜、ちょうど日付が変わる頃。
仕事熱心なダオニールは、タキシード姿のままでランプを手に持ち、館の二階を巡回していた。事件の日以降、日課として欠かさず行っているが、今のところ館の住人以外の怪しい者を見かけることはなかった。だが、油断大敵だ。自分以外の何者も信用してはならない。悲惨な人生を送ってきた彼にとって、それは経験上の哲学でもあった。
あの運命の瞬間、先代……もとい、現男爵の父親に捨て犬の如く拾われてからは、立派な使用人となるべく血の滲むような努力を重ねて修行を積み、ひとかどの人間へと成長した自覚はあるものの、きっと自己を形成する芯の部分は変わっていないに違いない。つい、人や物の臭いを嗅いでしまうという生来の癖が抜けきっていないのが、その証拠だ。
そういえば、最近やけに外の便所の臭いが強くなってきた気がする。もちろん便所だから尿臭や便臭がするのは当たり前なのだが、奇妙なことに、不快な汚臭に混じって、やけに芳しい甘ったるい匂いが混ざっているのだ。そう、まるで熟れた果物のような……そんなことがあり得るのか?
頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、老執事がホールの螺旋階段を降りて、一階に差し掛かったとき、廊下の彼方から、ランプの灯りが揺れながら近づいて来るのが目に入った。
「ルセフィ様ですか?」
人の臭いに敏感なダオニールは、彼女の姿が視認できる前に、優しく灯火に向かって呼びかけた。
「はい、ちょっとお花摘みに行こうと思いまして、ご同行願えますか、ダオニールさん?」
純白の寝間着の上にベージュのコートを纏った小さな貴婦人は、山において小便を意味する隠語を上品に用いながら、彼に護衛を依頼した。
まさに、彼女から漂う芳香こそが、便所の謎のアロマに近い気もするのだが……そんなことを乙女に面と向かって言うのは失礼極まる行為であることは自覚していたため、触れないことにした執事は、ただ一言、「はい、喜んで」とのみ答えた。もっとも、今夜はいつもの桃のごとき香りに、何やら一条不穏なものが混入しているような感覚に襲われたが、あくまでポーカーフェイスを維持した。
彼らは、無言で夜の廊下を突き進んで行く。外の鳴り止まぬ吹雪が、赤い絨毯に吸い込まれる足音以上に二人の鼓膜を刺激し、神経を研ぎ澄まさせた。裏口の扉を開けたとき、雪嵐の音は一層激しさを増し、体温を一瞬で奪っていった。
「さ、急ぎましょう、お嬢様」
ランプをしっかりと握りしめたダオニールが、少女のか細い白魚のような左手を引いて、雪道を掻き分けて進む。
「すいません、はしたないお願いかもしれませんが、あまりにも身体が冷たくなってしまったので、ちょっとだけ抱きしめていただけませんか?」
急に歩みを止めたルセフィが唐突にそんな依頼をしてきたため、さすがの執事も目を見開いた。
「は、はぁ……別に構いませんが」
猛吹雪の中、ダオニールは風上に立つと、身体を広げ気味にして、雛鳥を守る親鳥の如く少女を包み込んだ。
「ぐっ!」
次の刹那、コートの下から短剣を掴んだルセフィの右手が、執事の首筋目がけて稲妻のように走り、嫌な音を発した。哀れな老人の身体はどうとばかりに雪原に仰向けに倒れ、周囲の雪を人型に窪ませる。
「……?」
凶器を手にしたままの少女は、しかし、怪訝な表情をして、素早くしゃがみ込むと、ダオニールの喉元に顔を近づけた。
「うがっ!」
突如、レルフィの右手に衝撃が走り、短剣がぽとりと零れ落ちた。黒い袖から覗く、毛むくじゃらの大きな灰色の手が、彼女の右手首を思い切り叩いたのだ。
「やはり、あなたが犯人でしたか……血の臭いを察知して、いち早く変身出来て助かりましたよ。そんな小刀では、小生の分厚い毛皮は貫けません」
立ち上がりながらそう呟く口も、もはや老人のそれではなく、長く大きなもので、鋭い牙がナイフのように生えていた。
「じ、人狼族! まだ生き残っていたというの!?」
取り繕いを放棄した少女の顔は、驚愕と恐怖に満ち満ちており、素のままの感情に翻弄されていた。
「小生は山狩りを生き延びた最後の一人です。当時幼かったため、先代の男爵様に命を救っていただいたのです。まぁ、そんなことよりも、何故小生の命を狙ったのか、教えていただきたいんですが」
体は辛うじて人間型だが、顔面は碧眼の灰色狼そのものと化したダオニールが、慇懃な口調はそのままに、小さな襲撃犯に問い質す。
「そ、それはあなたが犯人だと思ったので、ここで始末しようとしたのよ! 実際人を喰らう怪物じゃないのあなた!」
「聞き捨てなりませんな。小生は生まれてからこの方、人間の肉など口にしたこともございません。とにかく、ここでは何ですから、一旦館に戻りましょう」
「や、やめろ、無礼者!」
「……ん?」
二人が言い争っている時、山荘の正面側に、何やら奇妙な光が輝くことに、人狼は気づいた。普段は嗅ぎ慣れぬ不思議な臭いも、風に紛れて飛ばされてくるように思われる。
降りしきる雪すだれの合間から、目を細くして異変の方向を眺めたダオニールは、狼の唸り声のような響きをあげた。
「あれは……白亜の建物!」
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