カルテ25 山荘と冬の護符と亡霊騎士 その1
雲一つない良い天気だった。天に最も近いこのカイロック山においてさえ、空が更に高くなった気がするほどの。夏が終わりに近付き、本格的に季節が移り行こうとしている証拠だろう。
蒼天の元に広がる色とりどりの高山植物が咲く花畑の端に、ベージュ色の二階建ての建物が、どっしりと大地に根を下ろしたかのように立っていた。灰色の石材で覆われた三角屋根の下の、モルタルで塗り固められた外壁は、大きな窓が横二列に並んでおり、その間を縫って勇敢な騎士や護符師たちが戦う図が描かれている様は、まさしくグルファスト王国の貴族の館に相応しいものであった。ここカイロック山はグルファスト王国の北端に位置し、ガウトニル山脈に属する4千メートル級の山だ。中腹には夏場に貴族が避暑地として過ごす山荘が点在しており、これもその一つである。
その館のアーチ型の立派な玄関から、まるで巣穴から逃げ出した兎のように、一人の中年男性が、必死の形相で走り出てきた。緑色のコートと茶色のズボンを着た、茶色い短髪にチョビ髭の一見シャレ男だが、よく見れば服にはだいぶ寄れが来ており、体つきも貧相だった。男の汗ばむ右手には、白銀に輝く一枚の護符がしっかりと握り締められていた。
「待ってください、父さん!」
男の後を追って、彼と全く同じ服装をした少年が、同じく館を飛び出してきた。まだ十五歳程度だが、聡明な顔つきをしており、柔らかな茶髪は男とよく似ていた。
「テレミン、お前も俺と一緒に来い! この護符があれば、一生遊んで暮らせる金が手に入るし、爵位だって思いのままだ! こんなチンケな山国じゃなくて別の所にいってもいいし、もう借金取りから逃げる日々ともおさらばだぞ!」
男は後ろも振り返らず、綺麗な花の絨毯を踏み荒らしていき、高揚した声で喚き散らした。
「だからって、今までお世話になったセイブル伯父さんを裏切って良い訳がありますか! 落ち着いていったん戻りましょう! 今ならまだ間に合います!」
「そうだ、レルバック! テレミンの言う通りだ! 馬鹿な真似はやめて、思い直してとっとと帰ってこい!」
少年の背後から、のっそりと恰幅のいい初老の男が、疾駆する中年男に呼びかけながら、歩いてきた。金糸や銀糸で彩られた、立派な赤いコートを着込み、腰には護身用の短剣を帯び、黒い帽子と同色のブーツを身に着けている。しかし彼の説得も、前方の男‐レルバックの耳には入らなかったようだ。
「何言ってやがる、俺を罠に嵌めたくせに、クソ兄貴め!」
「罠ではないぞ、たまたまだ!」
「ケっ、ほざきやがれ! こんなクソ寒い国、こっちから出て行ってやらぁ!」
「父さん、いい加減にしてください!」
愚かな父親に業を煮やした少年のギアが一段階上がった。勇気と活力に満ち溢れた若鹿の如く、ぐんぐん加速していき、見る間にレルバックに迫りつつある。
「テ、テレミン! この裏切り者!」
対して追われる側の方は、徐々に息切れが酷くなり、足取りも重くなっている。掴まるのは最早時間の問題だろう。
「父さんこそ目を覚ましてください! お尋ね者になりたいんですか?」
「うるせーっ! こうなったら……」
汗みずくのレルバックは、手にした護符を日にかざした。陽光を反射する銀色の札から、底知れぬ威圧感が迸り、周囲にこれまでになかった緊張が波紋のように走った。
「ば、馬鹿な、よせ、レルバック! お前如きにそれは扱えんぞ!」
「やめてください、父さん! 死ぬ気ですか!?」
しかし二人の忠告は逆効果で、哀れな脱走兵の決心を固めさせてしまう結果に終わった。
「えーい、知るか! どいつもこいつも俺を見下しやがって! 喰らえ!」
捨て鉢になったレルバックは、急に足を止めると、精一杯の声量を張り上げ、護符に書かれた禁断の文字を読み上げた。
「ビクトーザ!」
瞬時に、世界は白銀で覆われ、魔力を吸い尽くされたレルバックは死亡した。
だが、死ぬ間際に彼はかろうじて幸薄い一生を振り返ることだけは出来た。
彼の母国であるここグルファスト王国は高原国家とも呼ばれ、ガウトニル山脈のすそ野に広がるグルファスト高原を中心に繁栄している国だ。逞しい馬が名産で、赤竜騎士団という、赤毛の馬を乗騎とする最強の軍隊によって、長年にわたる北方のインヴェガ帝国からの侵略を水際で食い止めている。
勇猛果敢や頑固一徹を尊ぶ男性的なお国柄ではあるが、文武両道も国是としており、また、その土地柄ゆえか、強力な魔法の護符を欲する情熱はどこの国よりも熱く、隣国ザイザル共和国の、符学院のある学問の都ロラメットに子弟を留学させる者も多かった。
バルトレックス男爵家の次男坊として生まれ育ったレルバックも、家庭の方針により、護符師の道を歩むべく、親元を離れて符学院に入れられた一人だった。そもそも男爵家は長男のセイブルが継ぐことが既に決まっており、彼はいわば厄介者だったのだ。
しかし残念ながらあまり勉学に興味のなかったレルバックは、勝手に学院を中退し、放蕩三昧の日々を送り、半ばヒモのようなことをして暮らしていた。
そうして息子まで出来たが、相手の女性が、乳房に痼りが生じる謎の病気で亡くなったため、借金取りから逃げ出すかのように、息子とともに生まれ故郷に帰って来た。その頃には既に両親も他界しており、男爵家の当主はセイブルとなっていた。他に行き場のなかったレルバックは、渋る兄に泣いてすがり、息子ともども男爵家の居候となり、今に至ったのだ。
そして彼の運命を決定する出来事が、ちょうど一日前、この山荘で起こることとなる。
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