カルテ230 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その11

(エナデールってどこかで聞いたことある名前だけど、思い出せないのよねえ……うーん……)


 どこまで行っても木々の生い茂った杉林の中を機械的に淡々と歩きながら、エリザスは自分の前方を行く黒頭巾をしげしげと見つめた。朝方の厄介極まる霧はようやく晴れ、ところどころまだら状に木漏れ日が地上に差し込めているものの、正午近くとは思えないほど深山の道なき道は暗く、彼女の心もまた、暗澹としたモヤモヤが渦巻いていた。


(少し小屋から離れたところで話したいってことだったけど、一体どこに向かっているのかしら……このエナデールと名乗る女性は、確かに髪の色が黒い以外は瞳の色も顔の形もエミレース姉さんにそっくりだけど、何処かが違う……はっきりと指摘できないのがもどかしいんだけど……)


 数年ぶりに帰郷し、細部が変化した故郷を目にした時のような、そんな一種形容しがたい違和感を覚え、彼女は目の前の漆黒のフードを剥ぎ取りたい衝動にかられそうになって、寸でのところで下唇を噛み締め自制した。先ほどの吹き矢の腕前一つとってみてもエナデールが並々ならぬ武芸の実力者であるのは疑いの余地がないし、万が一にもそんなことをしたらただでは済まないだろう。それにもし、その素顔がエリザス同様人外の者であるなら秘密を隠し持つのはお互い様だ。目的は皆目わからないが、今のところ自分を害しそうな気配はないので、もうしばらく付き合ってみるかと腹を括った。


「しかし結構遠いのねえ。まだつかないの?」


「……もうすぐです」


 月のない深夜のように静かな声が返ってくる。足の裏に硬さを感じ、エリザスがふと下を見ると、下生えの草はいつの間にか疎らになっており、ゴツゴツとした岩肌が顔を覗かせていた。真上から頭に降り注ぐ日差しが急に強まったように感じ、耳介の後ろにジワリと汗が滲む。森が途切れようとしているのだ。


「……ここです」


 ふいに、影のような案内人が足を止めた。前方は蔦や苔に覆われた白っぽい岩壁となっており、一見行き止まりに見えたが、よく見ると人一人通れそうな洞窟が、木々の間から口を開いていた。


「も……もしかしてここに入るの?」


 最強の魔獣の一角であるくせに、エリザスは怖気づいてしまった。得体の知れない気持ち悪い生物が潜んでいそうで、鳥肌が立ちそうだった。


「……はい、中は滑りやすいので、気を付けてください」


 いつの間に用意したのやら、火のついたランプを右手に下げたエナデールが、振り返りもせずに、黒洞々たる闇の中に、するりと吸い込まれるように滑り込む。


「ま、待ってよ!」


 おいて行かれてはたまらないとばかりに、エリザスも間髪入れずにその後に続いた。



「随分気味の悪いところねえ……ヒッ」


 小声でしゃべったつもりだったが、洞窟の壁に反響したせいか、予想以上に大きな声になり、エリザスはビクッと反応してしまった。幸い暗視能力があるおかげで、か細い灯りのみでもそんなに困ることはないが、つららの如き鍾乳石や地面から筍のように突き出た岩が度々通行の邪魔をするのに閉口していたのだ。ポタポタと天井から落ちてくる水滴が時折髪の毛や肩に当たるのも不快極まりなく、一刻も早く外に出たかった。


「……慣れれば大したことありません」


 口数の少ない先達が、暗がりよりも陰気な声で答える。確かに彼女の歩行にはよどみがなかった。


(何となくエナデールの雰囲気って、誰か知っている人を連想させるのよねえ……誰だったかしら?)


 またもや謎の既視感に襲われ、エリザスは細い首を捻った。それも姉たちや故郷の人々とは違う、ごく最近出会った人のような気がするのだが……


「……そこに水溜りがあるので、注意して下さい」


「おっと、いけねえ!」


 考え事をしていて足元がお留守になっていたエリザスは、危ういところで美女にあるまじき大股で、辛くも着水のピンチを免れた。

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