カルテ168 伝説の魔女と辛子の魔竜(前編) その1
そこは現世に存在しながら、冥界の如く死の気配が色濃く立ち込めていた。
大人が数人手を繋いでようやく囲めるような太さの巨木が古代の神殿の柱のように林立している山奥の森の中に、突如開けた空間があった。まるで劫火で焼き払われたかのようなその広場に、蛇に似た長い尾と蝙蝠状の羽根を持つ、全身を青魚の如き銀色に光り輝く鱗で覆われた、一頭の大きな竜がとぐろを巻いて寝そべっていた。
不思議なことにその顔面は長い銀髪を持つ人間の女性のそれで、ふさふさと茂った睫毛を物憂げに伏せ、半眼のまま、何か思索に耽っているようでもあった。ただ、その瓜実型の美しい顔は人間の数倍の大きさで、額から一本の湾曲した銀色の角が飛び出しているところが、異形の存在であることを如実に物語っていた。
まだ正午を回ったばかりだというのに、空はどんよりと黒雲が垂れ込め、貴族の寝所の天蓋の如く竜の頭上を覆っていた。何者も近寄りがたいその禁断の地に孤高に君臨する覇王の如き万物の長は、しかし余所者が自分のテリトリーに侵入した微かな臭いを嗅ぎつけ、巨大だが美しい形の柳眉をひそめた。
「あら、そんなに怯えなくてもいいわよ、銀のドラゴンさん」
天を摩する木立の蔭から、場違いに明るい女性の声が風に乗って届いてきた。やや意表を突かれた銀竜は軽い戸惑いを覚えたが、むしろ更に警戒心を増し、餓えた虎のような低いうなり声を上げた。
「やれやれ、わかってもらえそうにないですね。別によろしいですけど。では改めて今日は、銀竜さん」
春風のようにさわやかな挨拶とともに姿を現したのは、護符師のよく着る黒いローブをまとい、肩から革製のカバンを下げ、長い赤毛を後ろにまとめた一人の女性だった。歳の頃は三十代ぐらいだろうか、気品に溢れた横顔と、理知的な光を宿す鳶色の澄んだ瞳からは、まるで高貴な一族の奥方を連想させた。しかし、一見穏やかそうだが、全身から醸し出す雰囲気は実力ある者が見ればただ物ではないことが即座にわかるほどであり、底知れぬ何かを内に隠し持っていた。
「ボノテオ村で随分とおいたをしたそうじゃないですか、ドラゴンさん。いっぱい食べ残しが散らかっていましたよ。それにしても人肉ってそんなに美味しいのでしょうか? 内緒ですが私も幼い頃興味本位で自分の指先の皮をかじってみたことがありますけど、苦くてあまり人には勧められませんでしたね。そんなものよりこの辺りの鹿やイノシシでも捕まえて食べてみたらどうですか? 結構いけますわよ……っておっと」
謎の女の軽口に業を煮やした魔竜が、大蛇に似た長い尻尾を一閃したため、彼女は素早く近くの木陰に身を隠した。すぐそばの大木の幹に真横に亀裂が走ったかと思うと、轟音を立てて後ろへと倒れていく。
「あらあら、気分を害されましたか? まあ、味の好みは人それぞれですし、他人にとやかく言われたくない気持ちはよくわかりますわ。だけどそれも、人様に御迷惑をかけないのが前提条件。ちょっとしつけが必要なようですね」
「バオオオオオオオオオオッ!」
彼女の軽口を遮って、暴竜の咆哮が天も裂けよとばかりに響き渡り、古代樹の森全体が嵐にでも襲われたかのようにビリビリと鳴動した。だが、不思議なことに、雄叫びに驚いた鳥の飛び立つ音や、小動物の逃げ惑う物音などは一切聞こえず、まるで死神の冷たい衣が森中に覆いかぶさっているかのような、不気味な雰囲気が辺り一面を支配していた。
「やれやれ、鼓膜が破けるかと思いましたわ」
そんな不気味な空気を物ともせず、竜の逆鱗に触れた当の本人は、両手でそれぞれの耳を抑えたまま、にこやかに微笑むのみだった。
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