カルテ40 山荘と冬の護符と亡霊騎士 その16
「ル、ルナベル・エバミール夫人が伝説の魔女の正体だと……! そんな馬鹿な……!」
男爵は、太い猪首を押し潰さんばかりに口を開けていた。あまりにも大きく顎を開いたため、外れそうになったほどだった。
「魔女の護符に書かれた文字が、明らかにお母様の字体と一緒だったため、お父様も確信されたそうです。もっとも私には、つい最近まで教えてくれませんでしたけれど。私はお母様のぼんやりとした記憶はあるのだけれどあまり覚えておらず、彼女は自分が幼い時に身罷ったものと教えられてきました。だから、親と言えばほぼお父様の事しか知りませんでした」
彼女は、物言わぬ躯を見下ろし、瞳を潤ませた。一同は神妙に彼女の話に耳を傾けていた。
「彼は本当に私に優しく、いつも一緒に長時間遊んでくださいましたし、幼くして私の糖尿病が発覚した時など、お母様の形見の注射器なるものを手渡し、『彼女も同じ病気だったんだよ』と仰って、動物から膵臓を取り出し、インスリンを精製する方法、それを注射器を用いて血管内に注入する方法など、事細かに治療法について講義してくださりました。おかげで私はこの歳まで生き抜くことが出来たのです。いったい今まで何千頭の家畜を手にかけてきたことでしょう。
しかし、徐々に暗く沈む日々の多くなったお父様は、二か月前に、青ざめた顔で私に、『すまんが、私はあと一年以内に死なねばならん。父親と同じく、恐るべき病にかかってしまった』と呻きながら、右の鎖骨の上にあるできものを見せて、白亜の建物を訪れた時の話をなさいました。受診後、彼は一時期は酒と煙草を控えていましたが、妻と別れ別れになった後、その悲しみを、酒と煙草で晴らすことが増えてしまい、やめたくてもやめられなくなってしまったということでした。そして、私のお母様が、実は魔女となってまだ生きている可能性のあること、形見と偽った注射器は、単なる予備であること、そしてバルトレックス男爵と共謀された今回の計画について語られたのです。私はあまりの衝撃に絶望の淵に沈み込みそうになりながらも、お父様の最後の願いだけは叶えてあげようと思いました」
「そしてパパさんと一緒にこの山荘に来て、数日だけ滞在の予定が、思わぬ吹雪で閉じ込められ、インスリン不足に陥っちゃったってわけですね~」
すっかり皆に忘れ去られていた医師が久々に発言し、存在感をアピールする。
「ええ、お父様と相談したところ、とりあえずレルバック氏の死体を利用する妙案を出してくださいましたが、それもすぐに足りなくなり、とうとうあの晩、彼は恐ろしいことを仰ったのです。『どうせ先の無い身体だ。これから私は自分で腹を切って死ぬから、その後でこっそり膵臓を取り出して使いなさい。お前だけでも助かって幸せになり、いつの日かお母さんと出会えることを祈っているよ』泣いて彼に縋り付く私を優しく諭して亡霊騎士計画を伝え、部屋の外に出すと、お父様は、鍵をかけ……!」
そこまで話すと、ついに彼女は絶句し、力尽きたように頽れた。
「全ては子爵の思惑だったのか……」
虚ろな目をした男爵が、ひび割れた響きを発する。
「多分、自決されたのにはもう一つの意味があったんじゃないですかね、白亜の建物が出現するのは、その人の生涯において一度きりのみ。だから、経験者の自分がいなくなれば、この場に現れる可能性が増えるので、ルセフィさんを救うため、自ら犠牲となったのかもしれません」
少年が、意外な盲点を突き、皆の頭にハンマーで殴られたようなインパクトを生じさせた。
「凄く凄く素敵なお父上だったんですね……ううううう」
フィズリンが服の袖で目頭を押さえ、子供のように泣きじゃくる。
「もうそろそろお嬢さんの拘束を解いてあげてもよろしいんじゃなくって、あなた? ずっとあのままでは可哀そうですわよ」
「あ、ああ、そうだな。結局誰も殺害したりしてないわけだし……ダオニール、彼女の手を縛っているタオルをほどいて差し上げなさい」
コンスタン夫人の要望には無条件に応じる男爵は、メイドと共にすすり泣いている狼執事に命を下した。
「かしこまりました、では、失礼致します」
「でもあなた、その狼の手で出来るの?」
「大丈夫です、口がありますゆえ」
「……」
あきれ返る少女の後ろ手に縛られた両手首に、人狼は口元を近付けると、戒めを一気に噛み千切った。
「ありがとう……さっきは切りかかってごめんなさいね」
「いえいえ、気にしてなどいませんよ」
ダオニールはタオルの端切れをペッと吐き出しながら、蒼い目を細めた。
「でも、私はあなたを殺そうとしてしまった。けじめをつけ、罪を償わねばならないわ……」
いつの間にか、彼女は右手に一本の注射器を握りしめていた。なんとそれには、一枚の水色の護符が巻きつけられていた。
「お父様が言っていたわ。いざというときは、お母様が残していったこの護符を読み上げろって。シクレスト!」
「ル、ルセフィさん!」
突如小屋の中に出現した濁流により、その場の人々は全て、外へと押し流されていった。
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