独りじゃない

 ………………気絶した覚えはない。

 しかし不思議な事に俺の目の前に居るのは萌ではなく、雪だった。だが雪は俺が殺した筈なので、ここは……死後の世界?

 しかしここが死後の世界とは思わない。あるかないかはともかくとして、こんなみすぼらしい家屋が死後の世界だなんてどの宗教でも言われていなかった。言われていない処か、これからも言われないのではないだろうか。神秘的もクソもない。地味すぎる。

「…………雪」

 相変わらず深編笠を被っており、何処に視線が置かれているか分からない。二人きりの状況に俺は困惑していた。刺さっていた矢も何処かに消えているし、まほろばには刺さった凶器を消す効果でもあるのだろうか。

「狩。私から逃げないの?」

「…………」



 色々と言いたい事はあるが、俺にその色々を聞く権利はない。俺は身体を起こすや、『家族』である雪に向かって抱き付いた。



「し、狩ッ?」

「ごめん! ごめんごめんごめんごめんごめん! 家族を失いたくなかった筈なのに、お前を殺した! ごめん! 許してくれ! 許してくれ! 許してくれ! 頼む許してくれ! お願いだから許してくれえ!」

 ずっとしたかった。一度として本人の目の前でした事が無かったから。自己満足と言われようが贖罪の手段など無いと言われようが、知らない。罪に同程度の罰を与えた所で罪というものはそう簡単に消えない事くらい知っている。


 それでも俺は、謝りたかった。


 心の底からごめんなさいと。謝りたかった。

 或いは心の限界だったとも言える。心の底からネガティブな俺では、自分で自分を許せない。今まで俺の代わりに俺を許してきたのは碧花だったが、その碧花も、心の何処かで居なくなるという予感がしている今、彼女ではその役目を果たせない。いや、誰であろうとそんな役目は務まらない。

 だから謝りたかった。せめて雪だけには、もう既に手遅れだったとしても。

「頼む…………許してくれ……こんな俺を……『家族』を殺してしまった俺を……許して……許してくれ……」

 譫言にも近い頻度で、俺は雪に許しを求め続けた。雪は泣きながら呟き続ける俺を、そっと抱き締めた。

「狩…………」

「生きてる意味なんかこれっぽっちもない俺が……お前を殺して……脱出なんて…………『俺』が、俺を……碧花と脱出して…………」

 自分でも何を言ってるか分からない。分かるのは後悔と、罪悪感と―――無力感だけだ。俺は俺の大切な人を殺すばかりで、誰も守れない。何も守れない。やがて守らなくなる。そんな俺がどうしようもなく嫌いだった。そんな俺がどうしようもなく憎かった。そんな俺をどうしようもなく殺したかった。

 俺が俺が嫌いだ。勝手に消す癖に、勝手に飢える俺が嫌いだ。嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで仕方ない。当たり前だが、俺の極限の劣等感はここから来ている。

 碧花とキスをしてまで彼女に告白する気になれないのは、こういう事だ。要は構造の欠陥だ。俺の代わりに俺の事は碧花は全て承認してくれるが、その構造は、翻って告白を滞らせる一因になっている。卒業までに告白するという腹は、裏返せばそれまでは絶対に出来ないという心の表れだ。

 何故なら俺が俺を一番信じられていないから。

「…………私は、狩の事を恨んでないよ」

 俺の心の闇を掬い上げる様に、雪は優しい声で言った。

「確かに、私は狩ともう会えない。でも、家族だもの。離れてても心は繋がってる。狩の幸せに一役買えるなら、魂くらい差し出すよ」

「……今でも、俺の事を『家族』と認めてくれるのか」

「家族は認めるものじゃないよ、狩。家族は理解し合うもの、そしてきっと繋がっているもの。狩は今言ったよね。私の事を『家族』って。ほら、認めるものじゃないでしょ」

「でも…………でも!」

「大丈夫。私はここに居るよ。もう二度と会えないかもしれないけど、狩が立ち直るまでここに居る。そんなにしがみつかなくても、そんなに謝らなくても、逃げたりしない。居なくなったりしない。だから―――ここで罪と向き合って、狩」

 罪と向き合おうとすると、いつも背筋が凍る感じがした。それが嫌だったし、何よりそんな事を何度もした結果が今の俺だ。罪が重なり続けて終いには逃げたくなった。妹の死で止めを刺されたとはいえ、罪に向き合う事自体は自殺行為にも等しい。

 普段の俺なら即刻断る所だったが、雪は続けてこうも言ってくれた。

「もう何処にも逃げ場がない事、狩なら分かってると思う。だから向き合おう? 私と一緒に、ここで」

「……お前と、一緒に?」

 顔を上げる。深編笠が見える。しかし何故だろう。今だけは、その奥に隠された表情が見える気がする。気のせいなんかじゃない。今、雪は笑っている。

「二度と会えない代わりに、今は一緒に居るから。狩が大丈夫になるまで、離れない。ね、だから一緒に向き合おう? 狩がどんな罪を犯して、どう思っているのか。どんな行動が悪くて、どうするべきだったのか。漠然と自分が悪いって思ってちゃ駄目だよ。狩の良い所はたくさん知ってる。私は狩が何もかも悪いなんて思わない。何もかも背負わないで? たまには家族にも、荷物を持たせてよ」

 果たしてそれが贖罪というのかどうかは分からない。俺が罪と向き合い、立ち直る事を死者がどう思うか、妹はどう思うのか。罪深き男が勝手に死んでくれた方が、死者の為なのではとも思ったが、その時、俺は偽物に刺されてからの気持ちを思い出した。


 ―――俺は生きたい。


 生きてる意味はない。

 生きてて楽しい訳でもない。

 生きてる価値がある訳ない。



 それでも俺は生きたい。



 誰の為でもなく、生きていたい。

 誰かの為にしか生きられないなら、俺は邂逅の森で刺された時、二人が来るまで生き延びる事は出来なかった。二人に助けられるまで命を繫げたのは、他でもない俺自身に、生きたいという欲望があったからだ。

 俺は生きたい。

 細かい理由は知らない。

 そんなものは考えたくない。

 只、生きたい。俺の事を誰よりも憎む俺がそう思ったなら、それ以上の動機は不要だ。その事をずっと忘れていた。矛盾した感情が、負の方向に傾き続けて矛盾を解消してしまう所だった。

 心なんて曖昧なものは矛盾していて良い。矛盾しているからこそ、心はどんな形にも、何色にも、どんな風にでも保つ事が出来る。それを、確固たるものにしてしまいそうになった。だから俺の心は傷ついたのだ。王の問いをノーガードで受けて、また自暴自棄になりかけたのだ。そして自暴自棄は決して事態を好転させない。

 俺はまた、失敗する所だった。

「…………俺の罪は多いぞ。それでも付き合ってくれるんだな」

「家族と一緒に居る時間を辛いとは思わない。話して、狩の罪を」

「俺は―――俺という人間は、いつから『首狩り族』になったんだろうな……」

 長い長い罪の回想は、何時間かかるかも分からない。それでも雪は俺を決して離さず、黙って聞き続ける。『家族』として、寄り添いながら。















 

 罪と向き合う事の辛さが、果たして善人に伝わるだろうか。悪い事をしたという事実を振り返る。言葉のみを捉えれば大した事ではないが、罪を罪として認識している人間にとって、これ程辛いものはない。思い出したくもない事件の全てを、もう一度見なければならないのだから。

 しかしお蔭で分かった事がある。今まで俺を押し潰してきた罪の正体が判明した。あまりにもたくさんあると思い込んでいた罪は、その実少なかった。俺が勝手に増やしていた幻想が殆どだったのだ。必要以上に自分を責めるとは、つまりこういう事なのだろうと今は思う。

 罪と向き合ううちに、涙も枯れた。

「……狩。よく頑張ったね」

「―――頑張った……?」

「狩は自分が弱い事に罪悪感を感じている。もっと頭が良ければ、もっと身体が動けば、もっと勇気があれば。そういう言葉はね、頑張った人間しか出さないの。不足を感じた人しか出ない言葉なの。狩はきっと、何度も同じ言葉を繰り返したと思う。それは貴方が、それだけ頑張った証。何もしてないなんて嘘だよ。だって狩は最善を尽くした」

「そんな訳無いだろ! 俺が最善を尽くせてたら、誰も死んでなかった!」

「最善が最良の結果を出すとは限らない。その証拠に、私は狩を襲った。それは私の目的とは随分かけ離れた行動だったけど、結果的に狩を助ける事が出来た」

「え? かけ離れたって、お前は俺をここに引き留めたかったんじゃ……」

「最初はそう思った。でも罪を思い出してからの貴方の顔は本当に辛そうで、ここに留めても良い事なんか無いって思ったの。だから私は貴方を襲った。周りの人を殺して人間に戻して、ついでに分断させて身代わりも置いて、それで帰らせようって思った。見かけだけでも殺そうとすれば、狩は心おきなくここを離れられるって。でも最善じゃない。私がこんな回りくどい事をしたから、狩はここに来てしまった。本当は来ちゃ、駄目なんだよ?」

「―――そういえば、ここは何処なんだ?」

 罪との対峙を一時中断させ、俺は改めて周囲に視線を払った。最初は雪に謝罪出来るチャンスだと思ってさして気にしていなかったが、こんな特徴も無く印象にも残らない家屋は見た事がない。間違っても蕎麦屋ではない。

「ここは……私が居る時点で分かって欲しいな。私の魂を受け取ってくれた狩なら何となく察しがつくんじゃない?」

 この景色自体もヒントだと雪は言う。こんな窓一つないぼろい家が一体どんなヒントになるというのだろうか。これでは外の様子が見えないし、玄関も無いならもし誰かが来ても応対できないではないか。

「…………すまん。全く察しはつかない」

「ふふ……そう。なら答えを教えるよ。ここは貴方の心象世界。心の中だよ。ここに私と狩しか居ないのはそういう事」

 心の中。じゃあこれが俺の心だというのか。どこもかしこも亀裂、罅、欠損が入っていながら差し込んでくる光はなく、玄関も窓もない辺獄みたいな部屋が、俺の心を表していると? とても信じたくないが、心の何処かに納得してしまう自分が居る。この部屋は俺の罪そのものなのだと。


 俺の罪。それは弱すぎた事だ。


 碧花に守られる事をいつも恥じていたのは、単純に男として嫌だという気持ちもあったが、俺が守られる立場から動けなかった事で多くの人を守れなかった事実がある。多くあると錯覚していた罪は、全てこの一言に集約される。

 俺は弱すぎた。誰かを守りたいと思い実行するには、全てにおいて弱すぎた。それでも弱い事を認められなかったのが、悪循環を引き起こした。出来もしない事をやろうとして、当然失敗する。失敗すれば俺は俺を咎める。それでも弱さを認められなくて、また同じ失敗をする。

 ならばこの部屋は俺そのものだ。誰も失いたくないと外界に繋がる場所を消している。出来もしない事をやろうとして壁や天井に傷が入っている。結果的には全員を失って、中には誰も居なくなっている。これだけ弱さが事態を最悪な方向に曲げているのに、認めようとしないから建物が老朽化している。

「そうか……もしかしてお前が、罪と向き合えって言ったのは」

「うん。狩を助けられる最後のチャンスだと思ったんだ。罪を拒絶しようとして、現に貴方は苦しんだ。罪を無かった事にしようとして、現に貴方は傷ついた。だから貴方には、受け入れて欲しいの。今までどんな間違いを犯してきたか、今までどんな思いで生きてきたか。そういう考えを全部振り返った上で、それでも自分は自分であり、今までの罪も貴方を形作る大切な要素なんだって受け入れて欲しい。それが出来たら狩はきっと強くなれる」

 雪は自らの身体から俺をそっと引き離すと、深編笠に手を掛けた。

「お、おい。何をするつもり……」



 あれ程取ろうとしなかった深編笠。雪はそれをあっさりと脱ぎ、本当の顔を俺に見せてくれた。



「狩。『首狩り族』を受け入れられるのは貴方しか居ない。私からの、『家族』からの最後のお願い。他の人に優しく出来るのは良い事だと思うけど、ほんの少しだけ……自分にも、優しくなってね」

「……………………初めて、お前の顔を見た」

「狩だけに、特別。貴方だけに覚えて欲しいの。もしまた、自分だけで背負い込みそうになったら、私の事を思い出して。狩は一人じゃないって、それを分かって欲しいの」

 それから暫くは言葉を交わさず、お互いを見つめ合った。するとどうだろう。不意に雪の身体がまばゆい光に包まれたではないか。

 別れの時が訪れたのだ。

「……もう、大丈夫みたいだね。狩」

 一度別れたら、もう二度と出会えない。雪はもう死んだ。俺が殺した。だから泣いても笑っても、これが最後。

「―――雪ッ!」

「ん?」







「…………………………お前と出会えて、幸せだった」 







「…………………そう。なら、良かった」

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