快楽に委ねるか、己が理で律するか

 これは選択である。

 碧花は常々『性欲処理がしたいなら私を使えばいい』と言っていた。普段なら真に受けないか逃げる所だが、正直な話、限界が見えている。少なくとも今日一日は碧花から離れる事はない。である以上は、何度かこういう場面には遭遇するだろう。


 なら今の内に、頼んでおいた方が良いのではないか。


 何処か致命的な点で間違えている気がするが、まさか碧花に気付かれているとは思わず、精神的に追い詰められている。こちらを誘うかのような彼女の問いに対する返答が十秒以上も遅れた時点で最早誤魔化す事は不可能にしか思えないが、それでも苦し紛れに俺は言った。

「そ、それは……あれだ。と、トイレ行きたくてな……行っても良いか?」

「…………」

 俺の双眸を覗き込みながら、碧花はゆっくりと手を動かしている。これが破裂寸前の俺の煩悩に非常に効く。後一歩ズボン越しだからまだ何とかなっているが、恐らくこれが直だった場合は……多分、アウトだ。

「…………ここには私と君の二人だけだ」

「お……おう」

「我慢しなくても……良いんだよ?」

 もしかして俺は、試されているのだろうか。誰にとは言わないが、男としての精神的な強さを試されている気がする。ここで襲い掛かれば失敗で、無事に耐え抜けば成功。


 しかし困った事に、男としての俺は彼女とシたいと思っている。


  この謎の板挟みもあり、俺は何もかも投げ出したくなった。このまま碧花と甘々でドロドロの夜を過ごすというのも、それはそれで悪くない気がした。いや、大いに良かった。

 それを差し止めたのは、俺の心に宿るチキンハート。骨の髄まで臆病な俺の本質が、暴走を間一髪で抑えつけた。

 ただし、想定外の方法での抑制だった。



「…………んぐッ!?」



 一転攻勢。俺は不意に碧花の腰に手を回すと、半ば勢いで彼女と二度目のキスをした。

「んッ…………んん…………!」

 舌を怪我したくなかったので、流石にディープキスではない。が、それでも彼女の華奢な腰を痛がってもおかしくないくらい抱き締めているので、流石の碧花も驚いて手を離すだろう……

「んんん…………ちょ、狩―――!」

 逃げても無駄なら攻めるまでと。俺のチキンハートはそう判断したのだろうが、これではチキンハートというよりライオンハートであろう。どちらにしても俺の理性の制御下に戻った時には遅かった。もうキスしている、その真っただ中である。

 十秒程もしてから、俺は直ぐに碧花から距離を取った。碧花は強引に唇を奪われた事に驚愕しているのか、息を荒くしながら、ボーっと俺の方を涙目で見つめている。

「う、うわああ! ごめん! お前が我慢しなくて良いって言ったからつい……いや、本当にごめん! ごめん!」

「い、いや……いいんだ。言い出しっぺは私だし……ね。あはは……」

「お、おい。本当に大丈夫かッ? やっぱ痛かったかッ? 涙出てんぞッ」

「だ、大丈夫。君がここまで積極的だったなんて……お、思わなくて」

「これは違う! 違うんだ! 我慢出来なかったのを我慢したら我慢出来なかった……あれ?」

 俺の中では道理が通っているが、これを言葉に出すと明らかに矛盾してしまう。不思議でも何でもない。俺自身には知り得て碧花には知り得ぬ考えがあるのだから。


「ちょ、ちょっと顔洗ってくるねッ!」


 予想していた躱し方と違うが、碧花が席を立った事で、暴走の危機は回避された。結果としてリビングに取り残された俺は、背凭れに凭れ掛かって、安心しきった様に溜息を吐いた。

「―――はあ~」

 二度目のキスを味わう間は無かった。しかしまあ……良しとしよう。これ以外の回避方法は恐らくなかった。あったとしても、俺の頭では煩悩を受け入れる以外の方法が思いつかなかった。

「…………」

 死に物狂いで回避した癖に、何故か今になって俺は後悔している。いや、本当におかしい。一秒前まで危険物だったものを、途端に危険物と認識しなくなった様なものだが、現実的に考えてそれは異常であろう。

 でも仕方ない。それに異常とは言ったって、全く矛盾している訳ではない。俺に限らず、モテない男子は大概そうだろうが、安全な場所から好き放題妄想するのが、日常だった。

 つまりこういう事だ。碧花に迫られていた瞬間が『非日常』で、そこから抜け出したのだから、一秒前でも二秒前でも今は『日常』。ならば日常通りの行動に戻らぬ道理は無い。俺にとって煩悩を受け入れる選択肢が架空のものになったから、妄想した訳だ。その煩悩を受け入れる未来を。

「……やあごめんね。私とした事が、らしくもない姿を見せてしまった」

 戻ってきた彼女は、またいつもの鉄面皮に戻っていた。

「の割にはまだ口がにやついてるぞ」

「え、嘘ッ! ちょ、ちょっと待って。もう一度洗面所に―――」


「嘘」


 身を翻そうとして動きを止めた彼女を見て、俺は遠慮無く嗤った。

「あはははは! 引っかかってやんのー!」

「き、君って人は……!」

「いやあごめんごめん。でもほら、やっぱりお前は笑ってた方が可愛いし。口がにやついてたって、俺は全然問題ないぞ?」

 先程は俺が追い詰められたので、今度はこちらが追い詰める番だ。本音も交えつつ彼女を弄ると、碧花は何処に視線を向けて良いか分からず、暫く視線を当ても無く彷徨わせた後―――

「……意地悪」

 それこそらしくもない可愛げな表情で俯いた。何にとは言わないが、その表情は物凄く俺に効く。碧花が平常心を取り戻して座り直すまで、俺も彼女の方を見れなかった。見たらどんな事になるか分かったもんじゃない。

「て、テレビでも見ようぜ」

「……うん」

 かつてないぎこちなさに、微妙に居心地の悪さを感じつつも、俺は席を動こうとはしなかった。感じたとは言っても、数値で言えば一だ。その何万倍と言っても足りない多幸感と引き換えに解消する程のものではない。


 違和感を覚えたのは、その時だった。


 結果的には冗談で済まされたとはいえ、一度女性を涙目にさせたのだ。もう弄るつもりもなく、後は本当に駄弁りながらテレビを見るつもりだった。

「……ん?」

 今度は碧花の方から、俺との距離を詰めてきた。それも腕を絡めて、絶対に俺が逃げられない様に対策を施してくるなんて。

「お、おい……」

 何も言わない。言おうとしない。頑として口を結んで、ただ身体を密着させてくる。一瞬焦ったが、直ぐにさっきの意趣返しだろうと受け取った俺は、意地でも反応しない事を決めた。

 生理現象は除く。

「―――なんかさ、クリスマスってあっと言う間だな」

「そりゃあ、夜から始めたパーティーだもの。当然だよ。一日の半分も無いんだから」

「まあそうか。しかしその……何だ。碧花。もし世界で一番イケメンでお金持ちで、しかも心優しい奴がお前を誘って来たらさ、誘いに乗るか?」

「何だい急に。答えてもいいけど、愚問だよね。私と長い付き合いの君なら、代わりに答えを言えるんじゃないのかな」

「……ノーか?」

「うん、正解。お金じゃ買えないものがある。イケメンでも心優しくても買えないものがある…………っと。待って、君は良い事を思い出させてくれた」

「お、何だ?」

「この部屋にクリスマスツリーが無い事には勿論気付いてると思うけど」

 ヤバい。気づいてなかった。多分碧花のサンタコスに見惚れていたり、その谷間をガン見していたり―――それ以外というものは思いつかなかったので、率直に言うと碧花の全てに意識が傾いていた。クリスマスツリーなんてあんなバカでかいものに気付かないのがその最たる証拠と言える。

 けど、それを言ってしまうとまたさっきのやり取りが始まりかねないので、ここでは気付いていた振りをしておく。

「実は私の部屋に飾ってあるんだ。ただ、敢えて未完成にしてある」

「……一緒に飾ってくれってか?」

「勿論タダでやらせるつもりは無いよ。クリスマスと言えばクリスマスプレゼントだ。手伝ってくれれば、君に何でも好きなものを一つプレゼントしよう」

「そうは言うけど、高校生の財力ってたかが知れてるだろ。それにお前、バイトしてないし」

「ふむ。そこまで疑うなら猶更手伝ってほしいな。私に対して理解を深められる良い機会でもある。やってくれるかな?」

「……そこまで言われちゃあ、俺も受けて立つしかないな。その発言を後悔するなよ。取り消したって遅いからな!」

「取り消さないよ。君へのプレゼントだもの」

 碧花はテレビを消すと、俺に腕を絡めたまま、二階へと移動する。偶然だろうが、歩くたびに胸が腕に当たるので、階段を上るたびに邪な気持ちが湧いて出てくる。一度抑えつけたのにまた湧いて出てくるとは、間欠泉もびっくりの勢いと底力だ。

 勢いよく開かれた碧花の自室へ足を踏み入れると、リビングでの力の入れようからある意味当然だが、この部屋もクリスマス仕様に変化していた。未完成のクリスマスツリーというのは部屋の隅にあるあれの事だろう。電飾も飾り付けも一件完璧に見えるが、てっぺんの星が足りない、何となく装飾に偏りが見える、と。確かに未完成だ。

 ベッドにはかつて俺が購入した巨大アザラシちゃんが寝そべっている。頭に被っている帽子は碧花が作ったのだろうか。市販ではあり得ないくらいサイズがぴったりだ。

「……実はお前って凝り性だったりするんだな」

「もっと褒めてくれたって良いんだよ。悪い気はしないからね」

 先程、お互いの事を知る為に質問をしていたが、語らずとも分かる事はある。まさかここまでマルチな女性だとは思っていなかった。いっそここまで有能だと、嫁としてだけではなく、社会人としても引く手あまたではなかろうか。

 資格勉強をしている、なんて話は寡聞にして知らないが、その気になれば取れるから取らないのだろう。学校の成績を考慮すればそうとしか考えられない。或いは俺の知らぬ間に取っているのかもしれないが。

「で、何処をどう装飾するんだ?」

「うん。それはね―――」

 碧花はようやく俺から離れ、ベッドの下から分厚い本を取り出すと、それを俺に投げ渡してきた。

「……重ッ!」

「そのマニュアルを見てくれ」

「え?」

「あ、心配しなくても私が全部書いたものだから、小難しい単語は一切出てこないよ」

「いや、そういう問題じゃねえだろ」

 ツリー装飾にマニュアルが必要だと欠片も思っていなかった。というか今まで俺と天奈はマニュアルなんて使わなかった。全てフィーリングで行っていた。

「…………五分で読破しろって言われても、無理だぞ」

「ああ大丈夫。最後から十二ページを見てくれればいいから」

「……微妙に聞きたくないけど、これの全部のページってどのくらいなんだ?」

「大した事無いよ。二〇〇くらいだ」

 大した事あった。

 何度でも言うが、ツリーの装飾如きで二〇〇ページも書く必要性があるのなら、俺と天奈はフィーリングでとんでもない難行を何度もやり遂げている事になる。




 後ろ向きを極めた様な俺だが、この時は珍しく前向きに『俺は天才なのではなかろうか』等という戯言をほざきかけた。 

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