楽園の中
「…………すげ」
何が凄いって、装飾である。これを全部一人でやったかと思うと、彼女がどれだけこのクリスマス会にやる気を抱いていたかが理解出来る。俺ん家でやったパーティーは天奈と二人でセッティングしたが、あれを一人でやると考えたらどれだけ大変か……ああ悍ましい。
あまり不思議に思っていなかったが、だからカーテンが閉まっていたのか。外からこれを見せて驚きを半減させない様に。
「ほらほら。そんな所で立ってないで座ったらどうだい。参加者は君一人だけだ。椅子なんて十分足りてるよ」
「お、おう」
廊下の方から碧花に押され、半ば強引に俺はリビングへ。されるがままに椅子へ座り、目の前に並べられた料理に目を瞠る。
「これも……お前一人で?」
「君と二人だけ、という言葉に綻びを作りたくないものでね。人生で一番手間をかけたかもしれない。栄養のバランスは若干軽視してるけど、そこは許してほしい。ああ、それとテレビは勝手に付けて構わないよ」
「お前は?」
「勿論座るよ…………君の隣に」
え。
俺の動揺が収まらない内に、彼女は心なしか早足で隣の椅子を引いて、マジで座った。いや、マジも何も嘘を吐く理由が無いのだが…………これは屋上のベンチで隣り合うのとは訳が違う。サンタコスの碧花なんて男子の誰もが見たい姿を、俺だけが見る事が出来ているのだ。少し手を伸ばせば胸に、性器に、お尻に。文字通り手の届く位置に碧花は居る。
「さ、早速食べようか。お腹は空いてる?」
「決まってんだろ! なんたってお前との約束があったんだからッ」
席に座っておいて何だが、俺は今すぐにでもトイレに行きたい。尿意を催しているのではない。下半身の唸りを止めたいのだ。こいつ、さっきから俺の意識の制御下を離れ、碧花の胸に負けず劣らずの自己主張を始めている。
机によって陰に隠れているから辛うじてバレていないものの、これがバレた日には何と言われてしまう事やら。だが手で隠そうとすると余計にそれっぽくなってしまうので、露骨には出来ない。だからトイレに行きたい。
「いただきます」
「い、いただきます」
反射的に手を合わせ、頭を下げる。駄目だ、俺には離れられない。これだけの近距離で、これだけ無防備な碧花を見る事なんて無いと分かっているからこそ、足が動かない。
もっとこの谷間を見ていたい。
彼女の視線が逸れた瞬間に胸を見始める所からも、俺の欲望がどれ程肥大化しているか分かるだろう。枷が外れかかっている、なんてレベルじゃない。とっくに外れている。
煩悩に負けている俺はテレビをつけつつも、その視線を彼女の胸から離さなかった。微動だにしない俺を不思議に思ったのか、碧花が不意にこちらを向いた。
「どうかした?」
「え……ああ、いや。お前に―――その。見惚れてて」
「―――そ、そういう事を、言うもんじゃないよ。ほら、早く食べなよ。それとも、あーんして欲しかったりするのかい?」
「それで俺が頷いても、『自分で喰え』って言うだろお前」
「ううん。君が望むならしてあげるよ」
「………………What?」
口を吐いて出たのは何故か英語だった。
「……ほ、ほ、ほほ本当か!?」
「何故そこまで驚くのか分からないな。あーんなんてこの前もしてあげたじゃないか」
「うるせッ。何度やってもらっても良いもんは良いんだよ! お前にはそれが分からんのです!」
「態度の割には、随分手放しに褒めてくれるね。分かった、そこまで言ってくれるなら一口だけしよう。でもその後はちゃんと自分で食べてね…………君の為だけに、作ったんだから」
「おうよ!」
最後の方はちょっと良く聞こえなかったが、お言葉に甘えて俺は最初の一口を食べさせてもらう事になった。そこで俺はローストビーフを選択。理由は特にないが、強いて言えばメイン級の料理は自分で食べたい思いがあったから。
碧花は手慣れた動きでローストビーフを一切れ取り、俺の口に近づける。明らかに素人が初めてやったとは思えない動きに、俺は心の中で首を傾げた。両親にやっているとは、思えないのだが。
しかしどうした事だろうか。俺の口の直前まで運んで、急に彼女の動きは停止した。そしてにわかに頬を染めて、視線を逸らした。
「あ……あんまり見ないでよ」
「え……あッ」
指摘されて気が付いた。料理が彼女の手に渡った時、俺はその料理を見るのではなく、碧花の顔を見ていたのだ。光すら逃さない深淵の瞳に視線が囚われていた、と言っても良い。本人からの手助けが無ければ、呑み込まれていたかもしれない。
今回の彼女の瞳には、いつになく澄んだ黒く淫乱な光が灯っている……気がした。
「……はい。あーん」
言葉に応じて俺も口を開ける。放り込まれたローストビーフに、俺は舌鼓を打った。
「美味ッ!」
家庭料理の領域じゃない。これはもう店である。人生で一番手間をかけたとは本人の弁だが、ひょっとして高級料理の如く素材から選んだという事だろうか。或いはその素材に最も適した調理法を模索した?
どっちでもいい。これ程の手料理、食べ残したら俺は致命的な損をする予感があった。
元々食欲はあったが、この一口を皮切りに、俺の胃袋も制御下を離れた。
―――本当に女子高生かよッ。
速度の出た車が急には止まれない様に、一度エンジンが掛かった俺の胃袋を止める術はない。碧花が引くかもしれない危惧すらも塗りつぶして、俺はひたすらかぶりついた。人間の三大欲求の内の一つが満たされた瞬間である。
「そんなに喜んでくれるんだ……フフフッ」
「ひやこへ……………ッン! いやこれ、喜ばねえほうがおかしいって! 最高だよ! 無限に食える気がするッ」
「流石にそれは言い過ぎだけど……悪い気はしないかな」
テレビを見ながら食事をする事についてマナーが云々言える程、俺もマナーを守っている訳ではないが、この間は一度もテレビの方を見なかった。それくらい料理が好みの味付けで、最適なボリュームで。
偶然かもしれないが、碧花があまりにも俺の事を分かり過ぎていて、テレビなんぞ見る気にはならなかった。それは彼女にとても失礼な気がした。
じゃあ消せよという話だが。
「……ん? お前は食べないのか?」
「食べるよ。けれども、料理人は美味しそうに食べる人の顔を見るのが好きなのさ」
一度そう言ってから、俺とは対称的に、碧花はゆっくりとした手つきで料理を口に運んだ。
「我ながら、上手に作れたね」
「そんな謙虚な自賛しないで、もっと誇ったっていいんだぞこれ! さーて、お次は何を食べるかなっとー」
食事が楽しいと感じたのはいつ以来か。何となく考え出したが、直ぐに答えは見つかった。これはあれだ。
修学旅行で初めてバイキング形式での食事を摂る事になった時と、全く同じなのだ。
バイキング形式は一種の娯楽でもあり、同時に見たままの食事でもある。マナーのなっていない俺がテレビを見ないのは、これによって『娯楽』の部分が補填されているからでもあるだろう。
それから約一時間後。大した会話も無く、俺は机の上のものを全て平らげてしまった。
「…………す、凄い」
「ふッ。どうだ、驚いただろう」
割合で言えば俺が九で碧花が一。体感では力士と同じくらい食べた気がする。現在は食後のデザートを二人で一緒に食べている所だ。
「いやあ、凄すぎて……ドン引きしたよ」
「ええッ?」
「冗談だよ。まあドン引きしたのは本当だけど……通り越して、いっそ感激したね」
「複雑な褒め方だな。もしかして貶してる?」
「まさか。所で、チョコレートケーキの味はどう?」
「んー美味いぞ―――まさかこれもお前が作ったなんて言わないよな」
「それこそまさか。私にパティシエの才能があるとでも思ってるの」
「おう」
「買い被り過ぎだよ。そこまでマルチじゃない。練習はしてるけどね」
してるんかい。
いつか食べてみたいものである。手作りのケーキ。その前に高校を卒業してしまいそうだが、そもそも俺と彼女が友達になれたきっかけは学校外での出来事だ。学校というものが無くなっても、俺達二人の関係が解消される訳ではない。
仕事とかで、会える頻度は少なくなりそうだが、それは仕方ないだろう。
「―――クリスマスは特番がたくさんやるから、見るものもたくさんあるね」
「特番なあ。毎週やって欲しいくらいの面白い奴たまにあるんだけどなあ。年に一回、下手すりゃ二度とやらないのが多いから困るぜ」
「だから特番なんでしょ。特別性がなくっちゃそうは言わない。例えばこのクリスマス会だって、毎週やったら飽きちゃうと思うしね」
それは無い。碧花が関与するなら何度だって、いやむしろやって欲しい。
もっと知りたい、もっと見ていたい。好きな女の子に対してそう思うのは、決して間違った感情では無いだろう。下半身の唸りが激化する事を知りつつも、俺は徐々に、徐々に。気づかれない位の速度で、碧花との距離を詰めていた。
一緒のケーキを二人で食べている事にかこつけて、とも言う。
「……ねえ狩也君。ふと思ったんだけどさ。私達って長い付き合いなのに、意外とお互いの事、知らないよね」
「え、そうか? ……そうだな」
碧花から俺なら、話は違うだろう。一度も隠した覚えがない。基本的にはオープンだ。しかもこれは、何も碧花にのみ限った話じゃない。
「だからさ。何でも聞いてきて良いよ。君と……もっと、仲良くなりたいし」
「……ほう。本当にどんな質問でも良いんだな?」
「うん。いいよ」
「じゃあスリーサイズを言ってもらおうじゃないか」
冗談のつもりだった。こういう他人にしたらセクハラで訴えられそうな質問も気兼ねなく出来るのが長い付き合いの良い所だ。勿論、少しでも恥ずかしがる素振りを見せてくれればそれで満足なので撤回するつもりだった。
なのに碧花は顔色一つ変えずに、
「……スリーサイズは、上から―――」
「わああああああああ! ストップストップ!」
マジの数値を言いそうだったから、直ぐに止めた。
「何で言うんだよ!」
「君が聞いたんじゃないか」
「そう言う問題じゃねえ!」
忘れていた。そう言えばこういう奴だった。こいつは俺の発言を一々真に受けて、その発言を叶えようとする女性だ。迂闊な事は聞くもんじゃない。
……そういう雰囲気でもないし。
ケーキも食べ終わった事だし、仕切り直しのつもりで、俺はもう一度訪ねた。
「……お前の両親って、どんな人なんだ?」
「私の両親かい? 何でまた」
「会った事ねえから、せめてお前の口から聞きたいなあと思ってさ」
いつどんなタイミングで碧花の家に行っても、居るのは彼女一人だけだ。正直一人暮らしを疑っている。親なんて本当は居ないんじゃないかと。その疑いは水着デートの時に晴れたかに思えたが、あれも実は『父』というだけで別の人物だったんじゃないかと思っている。
だって、幾ら何でもおかしい。家に遊びに行っても会えない点についてはもうこの際目を瞑るとして、その『父』にすれば碧花は娘な訳で。その娘が何処の馬の骨とも知れぬ男―――俺とつるんでいるなんて、『父』にすれば俺の素性を調べたい筈だ。丁度、萌の父親みたいに。
「……私の両親は、そうだね。両極端だよ」
「両極端?」
「父はとにかく寡黙で、一言も喋らない。話せない訳じゃないんだ、声も聴いた事はある。母曰く、『どう喋って良いか分からないから喋らない』らしい。一方で母はとても明るい性格だ。ショッピングや観光地巡りが好きで、よく父と出かけてる」
「想像以上に極端だな。こんな事言ったら失礼過ぎるけど、そんな人と出かけて楽しいのか……?」
「私もそう思ってるから失礼も何も無いよ。でも母は楽しいみたいだ。傍目から見ればどう見たって振り回してるのは母なのに、『あの人にはいつも振り回される』なんて言うんだよ」
「……最後のせいで全然分からん。やっぱ会わないと駄目だな」
今に話した通りの具体的とも抽象的とも言えない話を百回聞くよりも、一度会った方が確実に何かを掴める気がする。百聞は一見に如かず、だ。分かった事があるとすれば、夫婦仲がべらぼうに良いという事くらいか。
「なあ、今度会えないか?」
「ごめん。それは無理」
「どうしてだよ」
「君との時間を……邪魔されたくないから」
そんな事を言われると、こちらも何も言い返せなくなるからズルい。卑怯だ。少しだけ粘ってみたが、良い言葉が見つからなかったので諦めた。
「じゃあ次。…………あー」
何でも質問して良いと言われると、今度は質問に困る。聞きたい事が無い訳じゃないのだが、何から聞けば良いかが分からない。
「今までに何回告白された?」
「五百六十八回。同じ人から受けたのも含めるとね」
「因みに断った原因は……?」
「良く知らない人だし。一目惚れはロマンチックな事だと思うけど、知らない人と交際決める程、私は甘くないよ」
「じゃあ良く知ってたら付き合うのか?」
「良く知ってたらなんて可能性はあり得ない。私は君以外の事を知るつもりはないし、知りたくもない」
突き放した様な、というか突き放しているのか。何度か告白されている所を見た事はあるが、その中には俺より格好良い奴は当然、全てにおいて俺を上回る完全上位互換みたいな奴も居た。そんな奴等ですら眼中にないとは、流石は高嶺の花。高すぎて何も見えていない。
「うわ。皆可哀想だな。一ミリも脈無しって」
「そうだね。まるで君みたいだ。似た者同士仲良くしようじゃないか」
「うっせ! 俺は単にあれだから……格好良くないだけだから!」
「言ってて悲しくならない?」
「……言わせんなよ」
「君が言ったんだろ」
似た者同士と彼女は言ったが、正確に言えば似て非なる者だ。俺は単に魅力がないから脈無しで、碧花は魅力があり過ぎる故に選別出来てしまう。この違いはとても大きい。大きすぎて、見えない位だ。
次の質問を考えていると、俺の肩と碧花の肩が遂に接触した。流石に碧花もそれには気付いた様子で、一瞬だけ視線が外れたが、直ぐにまた戻る。
「あ、あー。えっと、その」
むしろ動揺していたのは俺だった。補足しておくが、これは俺から始めた事である。
「まさかとは思うけど、もうネタ切れかい?」
違う。聞きたい事はある。あるが、肉体の接触が思考をかき乱して、上手い具合に言葉が出ない。
「……ああ。じゃあ、私から質問しよう」
「…………! お、おう。何でも聞いてくれよ!」
「君のここ……随分苦しそうだけど。大丈夫かい?」
碧花の手が、下半身で唸り続けるそれを、ズボン越しにそっと包み込んだ。
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