無貌の怪物



 そいつには貌が無かった。壊れたおもちゃとでも言い表そうか。パーツ毎に作られた人形を、まるで糸か何かで無理やり縫合して、本来あるべき場所とは違った場所にくっつけられている。左手は頬に、右足は首に。足には右手と足。胴体は捩れていて、部位を元の場所に戻そうとしても、切断面まで歪んでいたら直しようがない。


「き、君は……随分愉快なものを依り代にしたね」


「ん…………んな訳、無いだろ。俺はあんなの知らない」


 そいつはまだ動かない。動かないが、本能的な恐怖が俺の全身を支配してしまい、俺もまた動けない。危険な物から遠ざかろうとするのは生物の本能だが、調理室という部屋は廊下の隅にあるので、それに従って後ろに逃げる事も出来ない。


 位置関係としては、碧花が前に居て、俺はその斜め後ろ。そして『そいつ』が前方だ。廊下の隅なので、つまり出口側。意図してやっているのかは分からないが、『そいつ』がどいてくれない事には、俺達も動けない。



―――俺は、幽霊というものは、もっとこう、ぼんやりしているモノだと思っていた。



 いや、これは幽霊ではなく、十中八九俺が呼びだしたモノなのだろうが……いやいや。どうしてこうなる。人形が変貌するなど聞いた事もない。というかここまではっきり来てくれると、怖いとか怖くない以前にヤバい気がする。幽霊と怪物、一体どちらが怖いのかという議論は古くからなされてきたが、どうやら俺の中ではそれに終止符が打たれた様だ。幽霊は死んでいるという点で恐ろしいが、怪物は理解不能、対話不能という点で恐ろしい。つまり怪物の方が―――怖い。


 人は正体不明を何よりも怖がるとは言うが、それは本能的恐怖に基づいた感覚だ。目の前に『死』そのものに等しい何かが居る方が、やはり怖い。と思ったが、正体不明が怖いと言えば、この怪物もそういう意味で正体不明だ。やはり正体不明最恐説は正しいらしい。


「あ…………う」


 心の中が落ち着かない。どうにか平静を保とうともっともらしい解説をつけて理屈をこねているが、今はそれ処じゃないのを俺は良く分かっている。今は―――そう。とにかくこの状況を脱出しなければ。



 そう思っているのに、考えているのに、どうしても身体が動かない。



 口は固まり、手は痺れ、足は竦み、心臓は高鳴る。一歩も動けそうにない。いや、動こうとしたら倒れ込んでしまうだろう。そうなれば本当に動けなくなって終わりだ。死後硬直ではないが、一度倒れ込んだらもう二度と動けそうにない。


 目は固まり、舌は痺れ、心が竦み、沈黙が言葉を押し潰す。せめて碧花の前に立たなければ、彼女が真っ先に殺されてしまう。そんな事は分かっている。分かっていても、出来ない事がある。心の中で何度俺が叫んだと思っている。何度格好つけたと思っている。


 映画の様には、いかない。俺は主人公ではないから。


「さて……どうしようか。君、何か逃げる算段ある?」


「な………………な、い」


 渾身の力を振り絞って俺の目は碧花を映した。一語二語発するのがやっとだった俺の身体は、彼女の全身を捉えた瞬間、雪解けを迎える事となった。





 碧花の手が、震えていた。  





 震えていたのは手だけではない。足も、果ては横目にこちらを見遣る瞳まで。俺と全く同じ様に震えていた。ついさっきの狂気染みた発言から一転して、彼女は普通の女の子になっていたのだ。それを見た時、俺の中で何が起きたのだろうか。それは俺自身も全く分からない。一つ確かな事があるとすれば、それは俺の身体が急速に弛緩し、動けるようになったという事である。残念ながら緊張のせいで喉がからからだが、それでも声は出る。


「―――水鏡。こっちに」


 俺は彼女の手を掴み、調理室へと逃げ込んだ。途中、彼女の足が何かに突っかかったが、それでも強引に引っ張ると、自分で体勢を立て直してくれた。取り敢えずは扉を閉めて、『何か』が来ても対応出来るようにする。あの間に襲って来なかったのは僥倖という他ない。


「どうするの?」


「……どうもこうも、隠れるんだよ。調理室なら丁度調理台がある。アイツの目が何処にあるかは知らないが、目が無いとするなら音か温度か。多分、どっちか」


「そんな常識で考えてしまっていいのかい?」


「俺は常識しか知らない。その―――水鏡、手」


 彼女にしてみれば、人が変わったとしか思えないだろう。俺は彼女の手を強く握りしめて、深呼吸。痺れの解消は一瞬だったが、再発も一瞬だった。彼女に指を絡ませて、守るべき者を実感する。


「君、一体何を……!」


「…………」


「そんな―――破廉恥な」


 痺れが消える。あの『何か』はいつになったら踏み込んでくるのやら。まずは計画通り、俺達は調理台の裏側に隠れる。


「水鏡。アイツは来てるか?」


「へ……えっと、来てないよ。ていうか足音が聞こえないから、君も分かるよね」


「足音が無い奴だったら困るだろ。しかし……そうか。来てない。いや、もしかしたら来るつもりがないのかもしれないな」


「どういう事?」


「アイツに知能がある前提だけど。ここは廊下の隅だ。動きさえしなければ俺達を永遠に閉じ込めて置ける。そう考えたら、アイツが踏み込んでこない理由もわかるだろ」


 ならばどうするか。俺は後世に語り継がれる名将の血を受け継ぐ人間ではない。ここで奇策の一つでも考えつけばもっと俺は女子にモテている筈である。頭が良いとモテるとは限らないが、頭が馬鹿過ぎてもモテる道理はない。


「水鏡。さっきの投擲だけど―――」


 狂人だろうが常人だろうが、碧花の謎スキルを活用する良い機会だ。俺が彼女に声を掛けようとした時、完全なる沈黙が足音を知らせた。


「…………ッ!」


 二人して、息を呑む。


 確かな足音とは言い難い。あの図体でここまでか細い足音を出すのかと思うと恐ろしいが、その頭陀袋を引き摺った様な音は、次第に調理室の扉まで近づき、やがてゆっくりと扉を開いた。ここで顔を出してしまうと気付かれる恐れがあるので、俺と碧花は目線だけでやりとりをして、足音に応じて調理室の机に沿って移動する。幸い、足音はかなり遅い。この時に一番やってはいけない事は焦れて飛び出してしまう事だ。この位置関係では追いつかれる可能性が高い。極限まで息を潜めて、全神経を耳に集中する。


 見つかった瞬間に死ぬかもしれないという緊張感は、俺と碧花の身体能力を一時的に高めた。普段なら思わず小声を出してしまう所を、まるで訓練された工作員の如く、俺達は隠れられている。しかし五分もすれば、また足音が止んでしまった。索敵しているのだろうか。先手を打って事態を打開しない事には、廊下で起きていた膠着状態が再発するだけである。俺も碧花も無制限に息を潜められる訳じゃない。何か引き付けられるものがあれば……!


 そんな時、碧花が持っていた包丁を俺に見せてきた。彼女は僅かだが微笑んでおり、どうやら俺と同じ発想に至ったと見ていいだろう。俺は投擲に自信が無いので、何故か無駄に慣れている碧花にその役目を任せる。俺がするべき事は只一つ。それはここから出た後、何処へ向かうかだ。




 調理室は一階。階段は使っておいた方が視線も切れるだろうからいいとして、半端な教室ではバレてしまいそうだ。だが二階にはこれといって隠れやすそうな特別教室が無い。放送室はまた詰みを引き起こすだけだろうし、職員室は閉じている。使えるとすれば―――



 美術室!



 刹那、調理室の奥に包丁が投げられた。甲高い金属音が鳴ると共に、またあの鈍重な足音が動き出す。それから少し間を置いて、俺は碧花の手を掴み走り出した。


 足音が翻ったがもう遅い。調理室を出て直ぐに階段を上り、美術室目掛けて走り出す。方向のみを考えると美術室は調理室の真反対にあるので、最短距離でここに来るにもあの速度では相当の時間を稼げる筈。あれが人形だとは思いたくないが、仮にあれが人形でないとすると、人形は何処に居るというのか。


 今はそんな事、どうでもいい。


 未来の事は余裕があるからこそ見えるものだ。今、俺達に余裕はない。考えるべきは、この危険から一刻も早く脱する事。それだけである。 
















 三〇分が経過した。あれから俺達は会話も無く沈黙に耳を澄ましていたが、足音がどうやっても聞こえない事を確信して、ようやく溜息を吐いた。それは割れた窓ガラスに吹き込む風の音にも似ていた。


「何か、逃げ切ったみたいだな…………」


「うん。そうみたいだね」


 俺はその場に溶けて、一時の安息を味わう事にした。自分で言うのは何だが、良く逃げられたものだ。問題はアイツが動いてくれたせいで知能があるのかどうか分からない事だが……



「所でさ。君はいつまで私の手を握ってるの?」



「え?」


 俺と碧花の手は調理室からずっと繋がっており、その繋がり方も、指を絡ませた恋人繫ぎだ。正気に戻った俺は慌てて手を離し、彼女から距離を取る。


「こんな繫ぎ方をしたのは初めてだよ……全く」


「ご、ごめん! あの時は落ち着きたくて……いや、違うんだよ!」


「何が違うのかよく分からないけど……そうだね。まあ、いいよ」


「え?」


「死なないだけ安いって奴だ。あんな非科学的な存在、初めて見たし…………」


 彼女は俺と触れていた手をポケットに入れて、窓の方へ歩き出した。丑三つ時から二時間以上経っている筈なのに、空が白んだ様子はない。未だに月は煌々と輝いている様で、月光が美術室の窓に差し込んでいた。


「狩也君」


「何だ?」


 開かない窓。形容しがたい怪物。見つからない人形。変わらない空。校舎内には二人きり。そんな特殊な状況下だからこそかもしれないが。





「有難う」





 月明かりに照らし出される水鏡碧花に、俺は月の女神アルテミスを錯覚した。 

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