ワタシが私になる話


 痛い。

 痛い。

 痛い。

 体が痛い。

 俺はどのくらいの高さから落ちたのだろうか。即死していないという事は、それなりに低くはあったのだろうが……少しの段差レベルでは無さそうだ。体の至る所がへし折れたみたいに痛い。もしかしたら腕は折れているのかもしれない。それくらいの痛みを感じている。


―――死ぬかも。


 呼吸が上手く出来ない。肋骨が折れたか? それならやはり、間もなく死ぬ事になると思うのだが、直感的にそれは無いと感じた。確信は無いが、三〇秒経っても死なないから、多分そう。何故ならその三〇秒は、俺史上最も長い三〇秒だったから。

「…………! …………ッ」

 ああ辛い。脳の辺りがぼんやりとする。死にたくは無いのに、楽になれるなら今すぐにでも死にたいと考えてしまう。

 矛盾は人の心の中でのみ矛盾したまま存在出来る。心は死にたくないのに、肉体は一分一秒でも早く死にたいと、そんな訴えを俺に向けて来ていた。優柔不断な俺を引っ張らんと、体と心が戦争をしている現状をどうにかしたい。どうにかしたいが、今の俺には己に向ける言葉すら満足に考えられない。


―――ああ。


 もういっそ受け入れてしまおうか。こんな苦痛に身体を晒し、苦しみ続けなければならない法律なんてこの世にはない。諦めたいなら諦めれば良い。人の思想は絶対不可侵のものだ。俺がここで諦める選択をして……それが周囲にどんな不利益をばらまいたとしても、それでも俺の選択は尊重される。

 なら、もう―――諦めてしまっても。





「狩也君!」





 折れかけた俺の心を立て直したのは、高尚な信念でも無ければ、主人公の如く強い覚悟やら気合いではない。『女の子に情けない姿を見せられない』という、くだらない見栄だった。暗闇の中から物凄い勢いで俺に駆け寄ってきたのは、最早言うまでもないだろう―――俺の事を誰よりも見てくれている女性、碧花だった。

 たとえ崖から転落したのだとしても大した距離は無い筈だが、彼女の息はかなりあがっていた。

「大丈夫ッ? こんな事になるなんて……ああ、今はそんな事どうでもいいや。今は君を安全な場所へ!」

 ここまで取り乱す彼女を見るのは、初めてかもしれない。いつもの仏頂面は崩れ切っており、その双眸からは滂沱の涙が流れていた。俺すら見た事のない顔を見る機会に恵まれてラッキー……とは思えない。冷静な彼女がここまで取り乱すくらいなのだから、俺の外面はさぞ酷い事になっているのだろう。

 というか、それはもう殆ど死んでいるのではないのか。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫。良い? 諦めちゃ駄目だ。君は死なない。死ぬ事はない。だから今は余計な事をしないで―――ああクソ、誰だよ邪魔した奴は…………」

 彼女の言っている事が理解出来ない。ずっと頭の中がぼんやりしているせいだろう。言葉は聞き取れても、その言葉を認知する事が出来ない。

 体が不意に軽くなった。そして勝手に移動し始めた。碧花が俺を抱きかかえたまま移動しているという事に気付くのに、五分かかった。その間、碧花は興奮と動揺冷めやらぬ様子でらしくもない独り言をぶつぶつと呟いているが、その一割も内容を理解する事は出来なかった。分かっていたのは、彼女の涙だけだった。

 慰めようとしても言葉が出ない。

 空元気を出そうにも、全身が動かない。

 辛うじて表情は動くが、俺を抱える碧花は、こちらには一瞥もくれないので、動いた所で意味が無い。


―――無力だなあ、俺って。


 辛うじて残った意識で、俺はずっと彼女の顔を眺めていたが、遂に限界が訪れた。今まで俺の瞼は、きっと糸か何かで誰かに持ち上げてもらっていたのだ。その糸がプツンと切れたら、その先にあるものは動かなくなる。

 急速に俺の視界は暗闇を呼び込み、意識を闇に閉ざした。首狩り族の最後にしては、あまりに呆気なく、俺の人生は幕を下ろしたのだ。




















 少女は優しさを知らなかった。

 少女は善意を知らなかった。

 この世に生を受けたその時から、少女は悪意しか知らなかった。あらゆる意味の悪意が、純情無垢だった少女を暗黒へと染め上げた。だからこそ、少女にとって世界は白黒であり、現実を言えば、白というものは存在しなかった。虚無か、黒か。虚無とは無機物であり、黒とはそれ以外。

 少女から見える世界はそれ程に味気なく、つまらなく、生きる意味すら知りたいとも思えない無味な代物だった。終いには、自分すら黒に見えた。

「ああ。いっそ死んでしまいたい。せめてその時は、面白おかしく」

 少女は空想家だった。現実を何よりも嫌っていた。空想を何よりも愛していた。色の付いた絵本こそ、少女にとっての現実だった。

 ある時、少女は本を閉じた。現実が手を差し伸べてきたのだ。無論、それは少女を取り込む為である。少女は優秀だった。その気になれば己の未来を何色にも変えられる逸材だった。

「変えたくない」

 それが少女の答えだった。年端も行かぬ少女は、この無味な世界における未来を拒絶した。何色に変わろうとも、少女にとっては全てが黒色だったのだ。

「それは許されない」

 現実は言った。空想からは卒業するべきであると。生を受けた世界にこそ想いを馳せるべきだと、そう少女に説いた。しかし少女は知っていた。現実は自分を体よく利用したいだけであり、そこに自分の幸せなどこれっぽっちも考慮されていないのだと。

 少女は己を嗤った。嗤う事しか出来なかった。人生とは舞台であり、その主役は自分に違いないと。間違いなくそう思っていたのに、それは違かったのだ。


 その日から少女は白と黒を受け入れた。


 空想から卒業したのではない。いつか空想すら白黒に支配されてしまいそうだと危惧し、自ら距離を置いたのだ。自分の大切なものだからこそ、傷つけたくないと思ったのだ。


 気が付けば、少女は笑う事を忘れていた。


 自分すら黒に見えたと言ったが、それは黒に『見えた』だけ。その時まで少女の中には間違いなく『色』があった筈なのに、消えていたのだ。


 気が付けば、少女は悲しむ事を忘れていた。


 消えていく。呼吸をする度に黒色が体内に流れ来んできて、内側を侵食していく。最初は怖かった。自分が自分でなくなっていくようで、怖かった。その恐怖に応じるかの如く、少女は


 恐れる事を忘れ、


 怒る事を忘れ、


 楽しむ事も忘れて。


 いつしか腐り切ってしまっていた。

 そんな自分がどうしようもなく憎らしくなって、少女は面白おかしく死ぬ事を考えた。腐っていく自分を放置するくらいなら、せめてこの手で終わらせようと、自分なりの慈悲を示したのだ。

「ねえ。私と遊ぼうよ」

 何して遊ぼうか。

「面白い遊びの一つくらい、教えて欲しいんだけど」

 じゃあ、とっておきの遊びがあるよ。

「―――! それって、どんな遊びなの?」

 とっても面白い遊びなの。

「……そう。じゃあやってみようかな」








「一人かくれんぼ」 

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