全てを終わらせる時



 俺の意識が目覚めたのは、奇跡に等しかった。道理を気にしなければこの世はまともに生きていけないが、今度ばかりは道理を語るべきではないだろう。無事に生きていた事を、取り敢えず喜ぶべきだ。


「…………碧花?」


 片手が塞がっていたので直ぐに気付いた。碧花はすっかり泣き止んでいたが、その眼にはまだ涙が溜まっている。何故か息が上がっているが……もしかして、俺が目覚めるまでずっと、看ていてくれたのだろうか。


「……もう、大丈夫なの」


 大丈夫か大丈夫じゃないかと言われれば、大丈夫だ。全身包帯ぐるぐる巻きまで覚悟していたのだが、何故かぐるぐる巻き処か、包帯の一本も見当たらない。何だか、馬鹿みたいである。包帯の一つも使用しない程の軽傷を相手に、俺は『死ぬかも』とか思っていたのか。


 この小屋が防音で、碧花が居なかったら恥ずかしさのあまり絶叫していただろう。


「今度は、寝ないんだな」


「寝ないよ……あれは君の命が繋がっている事を知っていたから安心しただけだ。それが分からないなら、私は絶対に眠ったりはしないさ」


 意識を失う前に見た顔は、既に元の仏頂面に戻っている。けれどその顔が安堵に緩み切っている事に、俺は敏感に察知した。長い付き合いだ。それくらい分かる。水鏡碧花という女性が誰よりも情緒豊かなのだ。その変化が非常に繊細なだけ。


 俺は誰に言われるまでもなく彼女を抱き寄せて、後頭部を梳く様に撫でた。


「えッ……!」


「有難う、碧花。お前が助けてくれたんだな」


 今だけでいい。少しの間、ずっとこうさせて欲しい。気恥ずかしさからか離れようとする碧花を膂力で抑え込み、少々強引に撫で続けた。


「か、狩也君……?」


 もう少し。もう少しだけ。下心を一切抜きに、今は彼女の存在を五感で感じていたかった。


 嗅覚で匂いを。


 視覚で彼女自身を。


 触覚でその肌を。


 聴覚で息遣いを。


 味覚は…………どうしようもない。


 碧花から手を離して、俺は素早くベッドから立ち上がった。この小屋の事はよく覚えている。危うく殺されかけた場所なのだから、忘れろというのがむしろ無理な話だ。


「ほらな? 大丈夫だろ?」


「本当に外傷が無いんだね」


「何だその他人事みたいな口調は。まあ俺自身も怪我の程度が軽すぎてびっくりしたけどな。何でこの程度の怪我……怪我なんかねえわ。え、どういう事?」


「―――さあ。私にも分からないよ」


 ここまであからさまだと、幾ら鈍い俺でも気が付く。碧花は嘘を吐いていた。少なくとも、分からないという事はあり得ないだろう。今の今までずっと看ていたなら事情は知っていないとおかしい。



―――まあ、今はそんな場合じゃないから聞かないけどな。



 そんな嘘なんぞを追求するよりも聞くべき事があるだろう。具体的には、俺と碧花をここまで苦しめてくれた怪異のその後。


「そう言えば、蝋燭歩きはどうなったんだ?」


「ん。ああ、消えていたよ。というよりも…………」


 碧花の言葉はやけに歯切れが悪かった。自分の見た光景をどう言葉に言い表したらよいか、迷っている様だ。


「ドロドロの蝋だけ残った。後で見に行ってもいいけど、あそこには液化した蝋しか無いよ。だから見に行っても仕方ないんじゃないかな。やるべき事もあるしね」


「やるべき……ああ、そうだな。その為にまずはアイツを対処したんだもんな」


 蝋燭歩きなど、本来は相手しなくてもいい怪異だった。それにわざわざ対処したのは、緋々巡りの準備中、もしくは実行中に邪魔されない様にする為である。俺達の本来の目的とは、オミカドサマを封印し、萌と由利を助ける事である。


「でも待てよ。確か準備段階って一人かくれんぼと全く同じだったよな。それで、テレビとか水場とか、そもそも人形が用意出来てなくて―――」


「その問題は解決してる」


「え?」


 …………理解が、追いつかない。


「あそこの蝋人形の事を言ってるのか?」


「使えないよあんなの。オミカドサマに干渉されたらそれでおしまいじゃないか。あっちも一回は封印されてるんだから、こっちの手段くらい分かってる筈だよ」


「あ、そっか……え? じゃあ解決って、え? 人形どうやって用意したんだよ」


「まあ色々と都合の良い事が起こってくれたからね。テレビの代用品もあるし、水場はとっくにみつけてある。ここからそう遠くない所だ。後は予定通り、魂を吹き込んで、それから所定の手順で儀式を終わらせるだけ。君さえ良ければ直ぐにでも出発するよ」


 いよいよ最終決戦の時が近づいてくる、と言えば聞こえはいいが、ここに来るまでに大変な遠回りをした。まるでこの戦いが終わったら平穏が訪れるとでも思えてしまいそうだが、忘れてはならない。



 萌は父親に狙われているという事を。



 それに野海の件もまだ片が付いていない。一時的に追い払えはしたが、今後がどうなるのかと言うと…………


 そうそう! 今後と言えば唐突に思い出したが、俺はマギャク部長とツーショット対決をしていた。あれも全然進んで…………




「いなあああああああああああああああい!」




 失念していた。もしくは絶叫していた。


 ツーショット対決は、途中まで最優先事項だった筈なのに、どうしてこうなった。どうしてこんな事になった。いつの間にか俺は現実と常識の通用しない化け物との戦いに身を投じていたが、元々はそういう話だったではないか。


 どうでもいい対決なら、このまま忘れていても良かっただろう。


『あ、ごめ~ん。すっかり忘れてたんよ~』


 とでも言って茶化しておけば何とかなる。


 だがツーショット対決は違う。あれは、俺が負ければ碧花はマギャク部長と付き合わなければならないのだ。それを阻止したくて、俺は対決を受け入れたのだ―――まあ、それは結果論で、碧花とマギャク部長の賭けは受けた直後に知ったのだが。


 突然大声を出されれば、さしもの碧花も怯むしか無かった。


「ど、どうしたのッ?」


「あ…………いや、いいや」


「え」


「今は気にするべきじゃない。人の命が懸かってるんだしな」


 本当にそう考えているなら最初から思い出すべきでは無かったのかもしれないが、忘れたままにしておくには、それはそれで重大すぎる問題でもある。塩梅の難しい話だ。けれど萌と由利、二人の命に比べれば、ずっと軽い話だ。


 俺は改めて碧花に言った。


「―――んん! まあ今のは置いといて。俺は準備万端だ。案内してくれ。儀式を行う場所に」


「……本当に、大丈夫? 失敗は許されないよ」


「なら成功するだけだ。それしか二人を助ける道は無いんだからな。頼む」


 この小屋を出れば、もう戻ってくる事はない。俺は心の中で、幾度も世話になったとはいえ、誰の所有物かも分からぬ小屋に別れを告げて、外に出た。




 最終決戦の火蓋が切り落とされるまで―――残り、僅か。

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