果たして俺は女神を見た


 ハッキリ言って、夜眠れる訳がない。だって、デートだ。碧花から誘われたのなら行くも行かぬは行くしかないが、俺から誘ったデートだ。行くしかないのは同じだが、そこには受動的な意味合いと能動的な意味合いの違いがある。受動的な意味であれば『呼ばれたから行くしかない』だが、能動的な意味合いは『行かねばならない』なのだ。どういう事なのかは各自考察してもらうとしても、とにかく俺が夜眠れる筈がないのだ。碧花を俺から誘うなんて事があり得る日が来るとは思わなかった。彼女がオーケーを出してくれるとは思っていなかった。そんな事があり得るのは夢の中だけだと思っていた。


 俺は今、生きている事に感謝している。何の神を信じている訳でもないが、俺が今こうして幸せを享受出来ているのは、俺の両親が俺を産んでくれたからであり、ひいては神々がこの世界を作りたもうたからであり、はたまたビッグバンが…………とにかく、生きていてよかった。


 次の休日程待ち遠しく、そして来て欲しくない日は無かった。あれ以降も学校で碧花と遭遇する事はあったが、俺は努めてデートの事を話題に出さぬように立ち回った。心の準備が出来ていない。誘う側が準備とは言葉の意味が分からないが、とにかく俺は緊張していたのだ。



 碧花とデートをする。



 その字面から、俺には耐えがたい苦悶があった。この苦悶は勿論、字面通りの意味ではない。喜びとか羞恥とかが色々混じった、一言ではとても言い表せないような感情だ。碧花と顔を合わせる度にそんな感情が湧いてきて、俺は俺の事が情けなくなった。俺がいつも通りで居られるのは、デートなんか一ミリも関係ないオカルト部の連中と関わっている時だけだ。特に萌は割と底抜けに明るいので、話しているだけで気が楽になる。いっそオカルト部に入部しようかと考えたが、碧花と一緒に居る時間を減らしたくないので、冗談という事にしておく。


 そんな心境で過ごす一週間はとても長くて……短くて。まるで永遠の中にある刹那。何やらクラスが若干寂しくなった気もするが、そんな事は気にもならない位、俺の心は追い詰められていた―――
















 約束の日。俺は五時半に起きると、朝からシャワーを浴びて、乾かして、髪を整えて。妹が起きるまでに朝食を済ませた。歯磨きも済ませた。冷蔵庫の余りもので、多分美味しくないのだろうが、味など分からない。食えれば良かった。


「ふぁ~おはよ、お兄ちゃん……って、あれ? もう朝ごはん食べちゃったの?」


「ああ。今日は約束の日だからな。精神を研ぎ澄ましておかないと、アイツにだらしない奴だって思われちまう」


「デートで精神統一なんて聞いた事が無いけど……お兄ちゃん、本当に楽しみなんだね」


「当たり前だろ。俺から誘うなんて初めての事なんだから。何だ、お兄ちゃんが失敗しないか不安なのか」


 天奈が一旦退出し、顔を洗いに行く。戻ってくると、彼女は笑顔のまま頭を振った。


「ううん! お兄ちゃんなら成功出来るって信じてるよッ。私はッ」


「何だか、やけに態度が前と違うな。この一週間で何があったんだ」


 前は渋々と言った感じが拭えなかったのに、今はこちらを信じ切ると言わんばかりに無垢だった。この一週間を思い返してみるが、彼女の心境に変化を与える出来事があったとは思えない。学校となれば流石に把握しきれないが、何があったのだろう。ここまで態度が変わると、人が変わったとしか思えない。


「え? そうだったかな。記憶にないんだけど」


「しらばっくれるなよ。まあいいや、応援してるなら有難い。精々応援しておいてくれ。もしかしたらお前の義姉になるかもしれないんだからな」


「多分、あり得ないと思うけど」


「…………他人に言われると傷つくからやめてくれ」



 因みに。



 先程から俺の声に抑揚が無い理由だが、これは精神統一をしていたのと、もうすぐ待ち合わせ場所に行かねばならぬという緊張感が合わさって、感情が八割程死んでいるだけだ。それでも碧花との結婚を否定されると傷つくくらいの感情は残っているが、それだけだ。相変わらず、俺は人形みたいにぎこちない会話を続ける。


 そんな俺を見て、遂に我慢ならなくなった天奈が叫んだ。


「あーもう、いつまで緊張してんの! そんなんじゃ女性を楽しませられないよッ」


「いや、大丈夫だ。俺はやる。やって見せる」


「無理無理無理! 絶対そんな緊張してるんじゃ無理。いい? デートって言うのはお互いに着飾るけど、自然体じゃなきゃ楽しめないの! 気を遣ってると疲れるでしょ? デートが楽しいって言われるのは、職場なんかと違って自然体になれるからなんだよ!」


「……現役JCの喩えが職場ってどうなんだ」


「うっさい! とにかくそのガチンガチンに固まってるのをどうにかしろ! お兄ちゃんはかっこいいんだから、自然体でも楽しませられるよ!」


「下手なお世辞だな」


「何で私がお兄ちゃんにお世辞言わないといけないの、阿呆なの? いざって時にしか役に立たないお兄ちゃんだけど、このデートはいざって時でしょっ? ほら、しっかりする!」


 無理を言わないで欲しい。この絶対零度は今に始まったものではないのだ。碧花に耳元で囁かれてから身体が震え出し、どうにも冷たくなってしまったのだ。この寒さは太陽の下に居ようが炎天下の中を走ろうが解決する事はなく、解決するとしたら方法は一つだけだ。


 時刻を見遣ると。四十五分。そろそろ行った方がいいだろう。俺は廊下に出してあった大量の荷物を抱えて、玄関で靴を履く。この家を出たら最後、俺は戻れない。戻れないが……後悔しない様な一日を過ごせたら、良いと思う。


「…………行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 妹の見送りを受けて、俺は外界への一歩を踏み出した。早朝という事もあり、若干寒くはあるが、季節が季節だ。極寒とは言えない。寒いと感じるのも、俺の心が凍り付いてしまったからかもしれない。海の嘴公園はここから徒歩で一時間くらいの筈。何のトラブルも起きなければ時間前に辿り着ける筈だ。デートの基本として、男性は女性よりも早く待っていなければならない。まさか碧花が十五分も早く到着している訳が無いので、これくらいで十分だろう。因みにこの余裕の持たせ方は、妹が教えてくれた。『ゆとり持たせ過ぎて二時間くらい前に行く未来が見えた』と言われたが、正にその通り。俺だけの知恵で行くなら、俺はとっくに待機している。今回のスタイルは俺のものではないが、妹には何かと世話になっているので、たまには耳を傾けるのも悪くないだろう。


 荷物は重い筈だが、不思議と重く感じない。矛盾しているが、俺は碧花の所へ行きたくないと思いながら、不思議と足取りを軽くしていたのだ。彼女がどんな姿で来てくれるのか、楽しみにしている。


 過去言った時はそもそも海で待ち合わせだったため、最初から彼女は水着だった。中学生にも拘らずビキニを着こなすのは流石としか言いようがない。というか殆ど俺はアイツの身体を見ていた。海の家の人も彼女が中学生と聞いて驚いていた。


 恐らくというか、今回もビキニであって欲しいが、それまではどうするのだろう。あの体型を周囲に見せつけるのは猛毒に等しい危険行為だ。常識的に考えれば普段着……か? 前が開くタイプのパーカーとか。


 何を着用していても俺にとっては目の保養になるが、こういう想像が実はかなり楽しい。俺はもとより陰キャなので、妄想は得意なのだ。女性に対しての童貞の妄想力を舐めてはいけない。俺の場合は途中で脳内円卓会議による厳重な審査によって、あまり過激な妄想はストップを喰らう。理性の桎梏からは逃れられないのだ。少なくとも、俺が童貞である限り。







―――碧花。






 楽しんでくれるといいのだが。いや、楽しませるのは俺か。


 これまた余談になるが、素人と芸人の何が違うか。考えた事があるだろうか。ネタとか経験とかそういうのではない。これは飽くまで俺個人の意見だが、素人は笑われて、芸人は笑わせるという違いがある。全く同じ様でいて、これら二つは全く違う事柄だ。


 ややこしい事を言うつもりはない。受動と能動は対義語で、芸人の対義語は素人。必然、笑われると笑わせるも対を為す事になるというだけの話。


 これと同じで、碧花が楽しんでくれる様に動くのではなく、俺が碧花を楽しませる様に動くのだ。今までの弱い俺はもう終わり。これからは俺が碧花の袖を掴むのではなく、碧花が俺の袖を掴むのだ…………無理か。


 お化け屋敷で怖がらない自信がない。萌を護っていた時は不思議と感覚が麻痺していたが、もとより俺はビビりなチキン。怯えない訳が無い。



 心が去ると書いて怯えると読む。俺の心は、俺の肉体以上に臆病なのだ。


















「狩也君。随分早い到着だね」






 海の嘴公園に着いたが、そこには既に碧花の姿があった。直前までは居た場合にどう声をかけたか悩んでいたのに、彼女から声を掛けられた事で、不思議と俺の次の言葉は決まっていた。



「お前に言われたくねえよっ!」



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