心の澱に眠る者

 容貌魁偉な人物が羨ましい。こういう場面で圧力を掛けられれば、萌の父親と言えども大人しく逃げただろう。今更自分の顔についてどうこう言うつもりはないが、俺の顔に圧力が無いせいで、この場で暴力沙汰を起こさなくてはならない。まだ俺には『妹』を殺すという仕事が残っているというのに。


 ―――痛いな。


 先程は扉の破壊に夢中で気にしていなかったが、拳の流血は止まっておらず、爪先の方も靴のせいで見えていないだけで、滅茶苦茶腫れている。頭部の方は流血こそしていないが、滅茶苦茶に頭突きをした影響で頭痛だか内出血だかでこれも痛い。自分で言うのも何だが、良く意識を保てている。だが制限時間は短い。

 短時間で決着をつけないと、意識を失うか、あまりの痛みに身体が耐えかねて倒れるか。いずれにしても、父親を追い払うくらいはしないと。

「……父親になるべきじゃない、か。それは君にも同じ事が言えるね、首藤狩也君」

 彼は立ち上がりつつ、俺を睨むのをやめない。まだ萌を犯したいとでも言いたいのだろうか。絶対に触れさせるつもりはないが。

「俺が萌の彼氏であるべきじゃないって話か」

「ああ、そうだ! 自覚があるなら今すぐ別れて欲しい。君では娘を幸せに出来ない」

「…………まあ、一理あるさ。俺は萌の心の支えになっていた人を失わせた。だけど、それとこれとは話が違う。少なくとも、俺が傍に居れば、お前が傍に居るよりは幸せに出来る」

「経済力が君には無い! 将来、娘はどん底に落ちる!」

「学生に経済力を求めんな。彼氏と言っても、結婚が決まってる訳じゃないんだから」

「結婚をするつもりがないなら、尚の事別れるんだ! 娘の為にならない!」

 意識がぼんやりする。普段なら怯むかもしれない圧力も、今なら何なく受け流せる。

「さっきから為にならない為にならないって言ってるけど、そういうのは本人が決める事じゃないのか。それに客観的に見ても、レイプ仕掛けてくる様な奴と一緒か、何もしてこない草食系の俺と一緒か、だったら後者の方が為になるだろ」

「話にならないな! この犯罪者が」

「そう思うなら警察を呼べばいい。半ば道連れじみてるが、捕まるのはお前の方だと思うぞ。そこに被害者も居るしな」

 御託はいいからさっさと何かして欲しいのは俺だけだろうか。逃げるなら逃げるで、殴りかかってくるなら殴りかかってくるで。動いて欲しい。こういう無駄な時間が一番俺に効くのだ。

「……今なら、逃がしてやってもいい。ただ、その時は萌の前に二度と現れてくれるな。今度現れたら承知しねえぞ」

「君の様な子供にそんな生意気な口を聞かれる謂れは無いし……そもそも! 誰に向かって口を聞いている! 私は大人で、君は子供だ! 敬語が足りないのではないかね!」

「敬語は敬うべき人物に使われる物だ。娘をレイプしようとするアンタの何処を尊敬するべきなのか教えて欲しい。父親としても、一人の男としても、最低だ」

 度重なる俺の挑発は効果覿面で、遂に萌の父親に実力行使を決意させるまでに至った。萌の父親は怒声だか奇声だか分からない声を上げながら、大きく拳を振り被って、俺に殴り掛からんと向かってくる。

「貴様アアアアアアアアア!」

 プロかクオン部長なら簡単に避けられるパンチなのかもしれないが、一方の俺も素人だ。避ける術を知らない。それに避けたら萌に手を出す時間を与える事になる。指一本触れさせるつもりはないという発言は心構えなどでは決してなく、本心だ。


 だから俺は、彼を睨みつけた。


 超能力者じゃあるまいし、それだけで止まる程現実は甘くないが、刹那の時間、萌の父親は俺を恐れた。

「……ふんッ!」

 成人男性の拳が頬にぶち当たる。歯が引っこ抜けそうな激痛を覚えたが、痛くない拳だ。さっきの鉄扉を相手に身体を叩きつけていた時の方がよっぽど痛い。俺が一切怯まないのを見て、萌の父親は露骨に動揺。素人の俺でも狙えるくらい大きな隙を晒した。

「萌に……近づくナ!」

 同じく隙だらけの、しかし全力のパンチをお見舞いする。拳が三割程度壊れている事もあり、大した威力では無いだろう。しかし萌の父親は身体を九の字に曲げ、ゲロを吐きながらその場に崩れ落ちた。

「ゲホ……おぅええええええ! な、何だこの……ああああああ!」

 追撃を加えられればそれが何よりだったが、俺もこんな負傷状態だ。下手に動けばそのまま気を失って動けなくなる。冷めた目で彼を見ながら、俺は仁王立ちを続けた。こんな不毛な勝負、早々に決着させるべきだ。子供と舐めておきながら、いざ実力行使となった際に俺に恐怖した時点で、勝ち負けは決まっている。

 だって恐怖した、という事は。俺という存在は今、萌の父親よりも大きいという事だ。それが概念上の問題だったとしても、肝心なのは他でもない萌の父親がそう思っているという点。ほぼ全ての勝負事に言えるが、最初から負けると思っていてはどんな勝負にも勝てやしない。

 言い換えれば、恐怖した瞬間から、萌の父親は俺に喧嘩で勝つ事は出来ない。たとえ俺が瀕死で、少しでも余計な動きをすれば倒れてしまうくらい貧弱な状態だったとしても、この男にとって俺のパンチはヘビー級ボクサーの拳もかくやと、重く感じている筈だ。

「逃げろよ。萌に二度と付き纏わず、接触しないなら俺も見逃す」

「む、娘を…………大切な娘を奪われて、黙っている父親が居るものか―――!」

「娘を嫁に貰おうとする父親なんか居ねえよ。少なくともこの国にはな」

 状況さえ違えば格好良かったのに、どうしてこの男は自分の都合でしか言葉を発せないのだろうか。俺に言わせるなら、大切と言っておきながらどうしてレイプしようとするのかが分からない。血が繋がっていないとはいえ、こんな奴が父親になろうとする事自体あり得てはならない事だ。子供処か、誰かを世話する資格すら無い。

「ぐ…………くッ」

「もう一度言うぞ。この場は見逃してもいいから、さっさとどっか行け。今はお前を殺すとか痛めつけるとかそんな事よりも、萌がまた笑顔を浮かべられる様な、そんな空間が必要なんだ。出てけ」

 これで出て行かなかったら、俺の負けだ。変に判断が遅れても俺の負けだ。もう一分と意識が持ちそうもない。今すぐにでも倒れて、泥の様に眠りたい。だからこれは、所謂プラフ、ハッタリ、或は虚勢だ。一ミリでも俺の心を見抜けたら、あちらの勝利は確定する。

 しかし全身傷だらけになっても抗い続ける俺の心を、こんな自分勝手な奴が理解出来る道理は無い。

「…………後で、覚えていろよ! お前の家族を、全員皆殺しにしてやるからな!」

 怨嗟にも似た捨て台詞を残して、萌の父親は無防備な背中を晒し、逃げて行った―――




「お兄ちゃん、ナーイス誘導♪」




 安心しきった俺がその場に崩れ落ちた直後に聞こえたのは、聞くだけでも虫唾が走りそうな『妹』の声。そういえば存在をすっかり忘れていたし……萌の父親は、元々彼女が殺す予定だった。

「グフッ……! き、きさ……誰…………?」

「私はー首藤狩也お兄ちゃんの妹でーす♡ 皆殺しにされたくないから、正当防衛で貴方を殺しまーす! 悪く思わないでくださいね!」

「グ……な、何、を―――ぐああああああああ!」

 何が起こっているかは大体想像がつく。何度も何度も肉に刃物を突き立てる音が聞こえる。回数に応じて萌の父親の声はか細くなり、その回数が二〇回を超える頃、すっかり声は聞こえなくなってしまった。

「お兄ちゃん、終わったよー……ってあれ? お兄ちゃん!」

 倒れ伏した俺を心配したか、『妹』が駆け寄ってくる。彼女の手によって抱き起こされるが、何をされた所で気力は切れたので、もう動けそうもない。

 それもこれも、壊せる筈の無い鉄扉に対して、ひたすら破壊行動を続けていたせいだ。

「お兄ちゃん、大丈夫……? 意識、ある?」

 意識はあるが、応答出来る余裕はない。うっすらと視界も機能してはいるのだが、傍から見れば目を瞑っているのと何ら変わりなく思えるだろう。

 果たして俺の読みは正しかった。俺が気絶していると勝手に思い込んだ『妹』は身体を床に下ろすと、何やらぶつぶつと独り言を呟き始めた。

「おかしい……こんな筈じゃなかった。何で扉が開いちゃうの? 何で消えたの? 何で…………」

 それ以降は何となく音が聞こえるだけで、決して言語としては聞き取れなかったが、また暫くすると、今度は萌に語り掛けているのか。『妹』が話し出した。

「ねえ、貴方が何かしたんでしょ。ねえねえ。ねえってば。起きてんでしょ? 私の作戦台無しにして、何がしたいの? ねえ、聞こえてんでしょ? 仮面なんかつけてねえで喋れよ! お兄ちゃん倒れちゃったじゃん! ねえどうしてくれんの? ねえ、せっかくお兄ちゃんを、本当の意味で『首狩り族』にする事が出来たのに、どうしてくれるの?」

 意識があろうがなかろうが、それを萌にぶつけるのはお門違いと言うものだ。何せ本当に関係がない。事の発端は俺と天奈で、萌は善意から捜索していただけだ。突然扉が消えたのも、何やら作戦が潰れたのにも、全く責任はない。

 作戦とやらが潰れた事がよっぽど頭に来ているのか、『妹』は情緒不安定になっていた。

「別にあの男なんてどーでも良かったんだよねえ。私のさー作戦はさー。鍵のかかった扉にお兄ちゃんが悪戦苦闘してる間に、貴方が犯されてさー、丁度その頃に私がこの鍵を見せて扉を開けてさー。でももう貴方は手遅れで、さっきの男は死んで。怒りの矛先を私に向けるしかなくなったお兄ちゃんが、私を殺してさー。それで完璧だったのに……どうしてくれんのよ!」


 ―――何、だと?


 ではあの時、隣の『妹』から鍵を分捕れば、俺はこんな体たらくにならなくて済んだと言うのか。

「私を殺しても、身体はあの子。だからどんなに納得しようとしたって、お兄ちゃんがあの子を殺した事実に変わりはない。それによって生まれる罪悪感とか、精神の摩擦なんかでお兄ちゃんが変わってくれれば、それが最高だったのに! 貴方が変な事したせいで! お兄ちゃんは気絶しちゃって! 貴方は助けが間に合って! 何もかも滅茶苦茶になった!」

 萌が沈黙を保ったままなのは、心当たりがない事の証明だ。知りもしない事に嘘は吐けないし真実も言えない。だって何も知らないから。そんな事、少し考えれば『妹』と言っても理解出来るだろうに、勝手に逆上した『妹』には伝わらないし、俺の方も段々意識がぼんやりしてきた。これから彼女が何をしようと、俺はそれを止めてやる事が出来ない。





 たと……え……萌を…………殺………………。





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