鏡の中のアリス
水鏡。
その言葉がどういう意味を示すのか、分からない俺じゃない。この時の俺は光よりも早くその結論に達して彼女の方を見たが、不思議な事に、碧花は何の反応も示さない。
「み、水鏡ッ?」
「何、知ってんの?」
「知ってるも何も…………え、ええ。み、水鏡ぃッ?」
「いやだから何その反応。うざ」
よりにもよって何でその苗字なんだ。あの空っぽ神社には水鏡緋花、九蘭高校には水鏡美原、そして俺の隣には水鏡碧花。え? これは何? どうなってんの?
一先ずは落ち着こうとしたって、苗字が苗字だ。実は同姓なだけで全く関係ない可能性……無くは無い。そう考えれば碧花の無反応も納得が行く。しかし……出来過ぎている気がする。山田とか田中とか鈴木ならまだしも、果たして水鏡がそうポンポン被る苗字だろうか。まだ俺の方が被る気がする。統計を取らずともそう思う。
「え、じゃああれか? 水鏡家の使用人みたいな人達が連れ戻そうとして来てるって事か?」
「さっきからそう言ってるでしょ。理解力ゼロかよ」
「いや……ちょ、ちょっとごめんな!」
駄目だ、もう我慢出来ない。俺は碧花の肩に手を回して少し離れると、二人には聞こえない様に尋ねた。
「おい、水鏡って―――お前の家じゃないのか?」
「何言ってるんだい。私の家はあそこだよ。君だって何度も来てるじゃないか」
「いやいやいや! そうかもしれないけど、お前だって何か関係あるんじゃないのか?」
「関係ないよ。仮に関係あったとしても、追われているのはあの子であって私じゃない。私達は旅してるだけだからね。気にする事なんてないでしょ」
それは本当に知らないのか、はたまたシラを切っているだけなのか。俺は嘘を見抜くのが大変に下手くそなので、どうなのかは知らない。
―――緋花さんの事、教えるべきかな?
いや、リスクが高い。わざわざ碧花を出し抜いてまで会いに行ったのに、ここでその情報を漏らす事に何のメリットがあるというのだ。
……仕方ない。自己保身的クズと受け取られるかもしれないが。
「ほ、ほら。お前の家の問題だったらさ……隣にいる俺も何か迷惑掛かりそうじゃん?」
「ああ、それは無いよ。この場で誓っても良い」
「え?」
「君に迷惑が少しでも掛かったのなら、これから一生君の生活の面倒を見るよ。だから信じて欲しい。君に迷惑は掛からない」
碧花は無敵だった。どうすれば真偽を見抜けるのだろう。『自分の事しか考えてない』と嫌われる覚悟で言ったのに、嫌われるどころか自信と代償を以て即答されてしまった。ここまでされると、流石の俺も対処しようがない。
「お、おう……それは分かったけど、一つ聞かせてくれないか?」
「何?」
「俺達がここに来たのって偶然だよな?」
「偶然だね」
「でもこんな事っておかしくないか? こんな近い範囲で水鏡の苗字が三人も居るんだぞ?」
碧花の瞳に、陰が指す。俺の発言に思う所があった様で、暫くの間でやや強引に話を断ち切ってから、改めて話を切り出してきた。
「誰?」
「え?」
「私に、その子に。後は誰なの?」
…………。
「お、俺?」
「嘘だよね。私達まだ結婚してないし。君がその程度の数字を間違える筈がない。ねえ、誰なの? 誰? もう一人同じ苗字の人を知ってるんだよね?」
「い、いやその……」
やらかした。かなり早計な判断だと言われようと、言わせてもらおう。今世紀で一番やらかした。教えるべきか否かという話で、教えてもメリットが無いという理由で終結したのに、何故か本当に漏らしてしまった。思考の中に浮かんだ疑問が先走ったせいとも言えるが、お蔭でここでも二択を強いられる事になった。
大人しく白状するべきか、それとも黙秘し続けるか。
「教えてよ。今更一人増えた所で怒ったりしないからさ」
「…………いや、そう言われても」
「―――まあ、どうしても言いたくないならいいけど。君がそうも強情になるって事は、余程大事な人って事なんだろうしね」
結果的には悪手だった。選択してからでは遅いが、黙秘し続けていても事態が好転する事は無い様だ。いつもいつも最善を選んできたつもりだったが、今回はかなり彼女の期限を損ねてしまった。その後の対応を怠ると、暫く口を聞いてくれなくなりそうで怖い。
「……本当に怒らないか?」
「―――教えてくれるの?」
「教えないと、怒るんだろ」
「怒りはしないけど…………隠し事を吐かせる手段なんてたくさんあるからね。それを使うかも」
よく分からないが、とても嫌な事をされる予感だけはするので、味わいたくない。
俺は観念して、あの日の夜の事を白状する事にした。
ただしプロポーズを受けた事は黙ったままだ。流石に言えない。言えそうもない。「全てを話す」と言いながらも、隠し事をし続けている自覚があるせいで冷や汗が止まらなかったが、それは一先ず、碧花には気付かれなかった。
「…………へー。あそこの巫女さん、そんな名前なんだ」
「似てるだろ? お前の名前に」
「似てるけども。私は知らないよ。姉妹なんて居ないし、全く関係がない……事も無いか」
「あ?」
ひそひそ話のままだった事もすっかり忘れて話し込んでいたが、そう言えば背中には神乃と美原の二人が居る。碧花は俺の手から離れつつ背後を向いた。
「そう言えば二人共、こんな所でのんびりしていてもいいの? 早く逃げないと、追っ手が来るんでしょ」
「お、おいちょっと! 碧花。急にどうしたんだよ」
「君は黙れ」
「黙れ!?」
「ああごめん。ただ、話は後回しだ。狩也君。暫く旅に二人を同行させてもいいかな?」
「ん…………? ん? ああ、ていうか最初からそうするつもりだったんだけど……助けたかったし」
俺はてっきり、「さっさとどっか行け」と言っているのかと思ったが、どうやら碧花のニュアンスは俺と同じ方向だった様だ。一体何を考えているのだろうか。
―――碧花。お前。
俺はまだ、水鏡碧花を知らない。鏡の裏の彼女を知らない。
という訳で、RPGよろしく四人旅が始まった。気になる点があるとすれば男女比率が明らかにおかしい事だが、これもRPG的観点からすれば何の不思議もない。性に目覚める前は男四人で固めていたが、性に目覚めた途端に主人公を除く全員を女性にする様なものだ。個人的にはあるあるとして推していきたいが、こんな下劣なあるあるを推すと「お前がスケベなだけ」と返されて終わるので、心の中に留めている。
「なあ、本当にどういうつもりなんだ?」
旅の主導者は俺と碧花なので、俺達が先頭を歩き、それに続く形で二人がついてきている。距離こそ詰まっているが、あちらもあちらで会話しているみたいなので、盗聴はされないだろう。
「どういうつもりって? 人を助けるのに理由なんか要らないよ」
「お前そういうキャラじゃ無いだろ。何か……あるんだろ。目的とかさ」
「目的……君には敵わないな。そうだね、目的ならあるよ―――全部君の為だ」
「俺の?」
首藤家は水鏡家に一ミリも関与していないので、それだけ言われても要領を得ない。暫く考え込んでいると、碧花が再び口を開いた。
「君が騒動に巻き込まれる原因の多くは、あからさまな火種を放置していたから、というのが多い。今回の件もきっと同じだ。君は必ず何かしらの形で巻き込まれる。でも、この旅はそういう辛い事を忘れる為に始めたものだ。その度で同じ間違いをしてちゃどうしようもない」
「…………で?」
「だから、先に火種を潰しておけばいいんだよ。この二人を何処か遠くに逃がせば、君は物理的に関われなくなる。『首狩り族』なんて嘘っぱちだけど、仮に本当だったとしても君の近くにさえ居なければ、その効力は発揮されない筈だ」
ハッキリ言って、驚いている。碧花が親しくもない誰かの為に動くのはあり得ないと思っていたが、動いたと思えば、それが俺の為だとは。
俺に優しいのは『友達』だからで、それは知っているのだが、これはある意味極端だ。碧花の行動原理が俺にあるのなら、極端な話、俺の為なら人だって殺しかねない訳で。
「…………有難うな。俺の為に、そこまでしてくれるなんて」
「『トモダチ』だろ? それくらいさせてよ」
「私には――――――君以外の―――だから」
無声音交じりに聞こえたその言葉は、残念ながら聞き取れなかった。
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