愛のなせる技なりや
萌が腕に驚かないのは、きっとフィールドワークの過程で何度も目にしたからだろう。その底抜けの明るさとは裏腹に、妙な所で肝が据わっているのが彼女の強い所だ。そしてそういう耐性は、オカルト部以外のどんな部活でも培えない。
「誰の腕なんでしょう、これ……」
「由利の……じゃないよな」
「御影先輩の手ってすっごく綺麗なので、違うと思います」
それは遠回しにこの手が汚いと……いや、そんな事は無いか。単純に俺が悪意フィルターを通して見ているせいである。この手は別に汚くない。きっと由利の手がべらぼうに綺麗なだけだ。
合流出来たら、後で見てみようか。
「じゃあ誰だ? 俺は知らないぞ」
「私もこんな手は見た事ないですね……手相で分かるかな」
「いや、まず誰がどういう手相をしてるか把握してないと分かんねえだろ。見るだけ無駄だろ」
むしろ見るべきはそんな所ではなく切断面だ。鑑識課でも何でもないが、切断面を見ればどういう手段で切られたか大体分かる。例えば綺麗に切られていたら刃物だろうし、作り物を疑うレベルで綺麗だったらユキリノメ。汚かったら力任せ。それくらい大雑把にしか分からないが、手相よりはよっぽど情報になる筈だ。
かつて誰かにくっついていたものを手に取るだけで心臓に楔を打たれた思いだが、見ないという選択肢はない。切断面の血はまだ固まり切っておらず、切れてから少しの時間しか経っていない様に思える。こういう時は大抵、血の雫が道みたいに続いているものだが、それは周囲の何処にも存在しない。それさえあれば、後はそれを追っているだけで腕の所有者を見つけられたのに。
「……それにしても、綺麗だな」
ユキリノメ程ぶっ飛んだ綺麗さではないが、骨も含めてこんな綺麗に切れるものだろうか。チェンソーとか丸ノコみたいな電動工具では、もう少し切断面に粗とか生まれると思うのだが。実際どうかは知らない。人の部位に電動工具を当てる様な奴にはなりたくないものだ。
そもそも、どうして電動工具だと思った? そんなもの使えばあちらこちらに肉片やら血液やらが飛び散る筈だ。ユキリノメ以上にあり得ない。
「……ああ。気分悪くなってきたな」
目線を逸らして、暫し現実を忘れる。なまじ本物であるだけに、長時間見るのはやはりキツイ。何度見ようが死体は死体。欠損は欠損。腕は腕。これが以前、誰かにくっついていて、しかも切り離されたと想像するだけで気持ち悪い。吐きそうだ。
「…………先輩。大丈夫ですか? 気分悪いなら、この腕は見ない方が―――」
「……いや、大丈夫だ」
死体でないだけ、マシと考えよう。まだ平静を保てるだけマシ。取り乱さないだけマシ。情けない姿を見せないだけマシ。
碧花にだけは見せてしまった、俺の泣きじゃくる姿。萌は到底見せられない。
「で、結局お前はこの腕が誰か分かったのか?」
「分かりません。持っていくのは流石に嫌なので、ここに置いておきましょう」
賢明な判断だ。持っていった所で縫合出来るとは思えない。というか縫合しても、再生はしない。人形とは違うのだ、人間の身体は―――
「えーと。取り敢えず舐めすぎじゃない?」
「――先輩ッ!」
「へ? ……うわあ!」
萌が急に突き飛ばしてきたかと思えば、次の瞬間。先程まで俺が立っていた位置に向かって斧が投げつけられた。漫画みたいにうまく突き刺さるとは思えないが、地面には丁度良く刃が食い込んでいる。そして機動的に、もしも刃が当たっていたら俺は死んでいた。
斧の飛んできた方向を見遣ると、楼が立っているではないか。
「狩。逃げる気があるのか無いのかハッキリしなよ。距離を離したからって僕が君を諦める訳ないだろ」
「お、お前……」
刃が当たる当たらないはともかく、どう見ても足というよりは頚を狙っていた気がする。もしくは背中。狙う箇所に悪意と殺意しか感じないが、しかしこうして面と向かうと、楼からはそういう醜悪な感情を感じない。多分。
「何してるんですか先輩、逃げますよ!」
「お、おうッ」
何故か斧を投げてきたお蔭で、明らかな逃走猶予が与えられている。斧を奪って返り討ちにする手段も考えられたが、俺は逃げたいだけで楼を特別憎んでいる訳じゃない。そんな事はせず、大人しく萌と共にまた走り出す。腕の事は気になったが、あんな所でもたもたしていたらそれこそ頭をかち割られかねない。
「先輩遅いですよ!」
「ちょ、ちょっと待て、俺はお前等と違ってそこまで体力が…………ハア」
息も整えない、ペース配分も考えない。そんな滅茶苦茶な走り出しをすれば素人は息切れする。なりふり構わず全力で逃げた事はこれが初めてじゃないが、だからって慣れるものではないし、そもそも慣れてはいけないものだ。
背後を振り返ると、楼は既に斧を回収し、ゆっくりと歩いて距離を詰めようとしていた。何故走らない。あれでは楼の方が息切れした瞬間にペースを上げて一気に突き放すという戦術が取れないではないか。
「次は……何処に…………ハア……行くんだッ?」
「御影先輩が居そうな所に行きたいと思います! ここから大分遠いんですけど、大丈夫ですか!」
言葉を返す余裕があったら走る体力に充てる。返答する事は出来なかったが、萌は俺の意思を理解した様だ。少しペースを上げた。多少配分が変わろうとも全く息の切れない萌が、この時はとても羨ましかった。
息が切れても無理に走っていると、終いには脇腹が痛くなってくる。運動出来ない奴はよく分かるのではないだろうか。
「も、もう無理………………ちょ…………待って」
ちょっと遠すぎる処の話だろうか。距離感が滅茶苦茶だ。墓地ですらこんな遠かった記憶はない。萌の向かう目的地とやらは偶然にも人形屋敷らしいが、いやはや、本当に遠すぎる。予め雪と一緒に行って、近道を教えてもらうべきだった。
楼に一度追いつかれてから四五分。気力だけはまだまだ走るつもりだが、身体がそれを拒絶している。どれくらい拒絶しているかと言うと、派手に転んで起き上がれなくなるくらい。これはこれで情けない姿だが、萌は幻滅一つせず、俺を引っ張って近くの家に引っ張り込んだ。
「すまん……」
「いえ、大丈夫ですッ。距離がおかしいのは私も思ってた事なので」
「どういう…………事だ……?」
「人形屋敷、一回だけ行った事があるんですけど。その時はこんな遠くなかったと思うんですよね。気のせいならいいんですけど、距離が自在に変わっちゃうって事だったら、逃げられる見込みが薄くなりますからねー」
或いはベルトコンベアーにでも乗っているのかもしれない。地面がベルトコンベアーみたいになっていたら、距離が増えた様に思えるだろう。実際は一つも進んでいないのに。しかしこの仮説だと楼を引き離せている事が目に見えて分かっている事を説明出来ない。仮説は飽くまで仮設だ。
「…………逃げられない……のか?」
諦観混じりにそう尋ねると、萌はぶんぶんと首を振って、俺の手を握った。
「大丈夫ですよ、先輩。絶対逃げられます! 根拠は無いですけど、そんな気がするんです!」
「随分と……ポジティブだな……ハア」
「だって私、まだ死ねませんッ。先輩と一緒にしたい事、もっとあるんですから!」
「―――心霊スポットは勘弁だぞ」
「違いますよッ。夏祭りとか海とか、凧揚げとか、初詣とか色々あるじゃないですかッ。私、そういう経験は先輩と一緒にしたいんです。だからここから絶対逃げるし、死にません! 先輩はどうなんですか?」
「…………俺か」
死ねない理由、生きる理由。そんなものがあるとすれば、碧花の為という他ない。それを抜いてしまうと、生きる理由も死ねない理由も、俺には存在しない。空虚だ。何処までも中身が無い。一方で死ぬ理由だけは多々あるのがまた辛い。
未来を見据える萌の瞳はとても輝いていて、俺には直視出来なかった。
「………思いつかないから、無事に逃げられたら考えるわ」
「じゃあ絶対逃げないとですね!」
「―――そうだな」
あまり乗り気ではない、と言えば嘘になる。全く逃げないつもりも無いが、何処の世界に居ても、俺の罪は消えないし、忘れさせてもくれない。俺は萌みたいに、明るくなれない。
「…………もう少し休憩させてくれ」
「大丈夫ですッ」
楼と雪に見つからない事を祈りながら、俺達は暫くの休息についた。
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