地図なき旅に終わりは無い
「リベンジおめでとう」
二時間にも及ぶ激闘が、たったその一言で労われた事実に、俺は憤りを隠せなかった。掴みかかってやろうと彼女の下まで赴くと、ベンチの上に缶ココアが置かれていた。勿論、俺が購入したものである。
「……これは?」
「君のかっこいい姿を見せてくれたお礼……いや、褒美? ともかく、私だけじゃ飲み切れないからね。一本飲んでよ」
妙に悪意のある言い回しに俺は食って掛かろうとしたが、当の碧花の表情はとても穏やかで、にこやかで。本当に俺を称賛している様だった。
普段の仏頂面を知っているだけに、その表情を見ているだけで俺の心を蝕んでいた毒はひとりでに抜け、後に残ったのは身体を動かしまくった事による疲労だけだった。気が付けばこちらの頬も緩んでいる。言いたい事も終いには忘れてしまっていた。
「……ああ。いいぜ」
缶ココアの口を開けて、一気に注ぎ込む。少し外気に触れていたから冷めているかとも思ったが、まだまだ熱々だ。この五臓六腑に染み渡る感覚が癖になる。これだからココアは止められないが、やはり碧花が作ってくれたココアの方が美味い。自販機には悪いが、あちらの方が俺好みの味だ。
その碧花はと言うとコーヒーであり、あれもあれで五臓六腑に染み渡る感覚がある。しかし俺的には、甘さがしみこんでいく感覚が好きなのだ。ココアを渡してきたのは偶然だろうが、ナイス碧花、とでも言おうか。
「…………はあ~」
温かい飲み物を飲んだ影響で、息が可視化される。ベンチに背中を預けながら二人で温かい飲み物を飲む。冬の醍醐味と言えば色々あるが、これもその内の一つでは無いだろうか。特に好きな人と手を繫ぎながら飲むなら猶更だ。
「そろそろ昼だね」
「人によってはもう昼だと思うぞ」
周囲を改めて見回すと、ちらほらと人影が見え始めた。昼と呼ばれる時間帯に入って直ぐだからこんなものか。時計がてっぺんに来る頃には、外回りの営業マンの姿なんかも見えてくれるだろう。喧騒の中で生きてきた俺達にとっては、それこそが日常の証だ。静かすぎると、どうも別の国に来たかの様な感覚を覚えてしまう。
流石に少し誇張した。
「どうしようか。私はまだお腹空いてないけど、君は?」
「俺もだ。遊んだつっても、遊具で遊んだだけだしな。別に走り回った訳じゃねえ。だから―――そうだな。次の行きたい場所でも探しながら、ぶらりぶらりと食べ歩きする感じで、良いんじゃないか?」
「……正に旅って感じだね」
「暫く学校行かなくてもいいんだ。自由に過ごさなきゃな。でもまだ―――ここで、お前と駄弁っていたい気持ちはある」
引き続きココアを喉に流しつつ、俺は見もせずに碧花の指を弄り回していた。負けじと当人も俺の指を弄ってくる。弄る、と言っても大した事じゃない。どちらの指を上に出来るか、という無限ループの争いを繰り広げているだけだ。
「……まだ、何日もあるんだ。もっと遠くへ行きたいね」
「……ああ、そうだな。旅だもんな。何処までも、何処までも行けるもんな」
「うん。君と私なら、何処までも行けるさ。世界の果てだって、空の果てだって」
それは何処までも妄想で。けれどもそれはロマンに満ちていて。夢みたいな夢だが、こうしてベンチに座りながら話す分には、最適な話題であった。今まで一人たりとも彼女なんて居た事が無いが、恋人っていうのは……こういう会話を、するんじゃなかろうか。
いや、どさくさに紛れて碧花と付き合おうとしてる訳じゃない。どれだけ恐ろしくても、取り敢えず告白はするつもりだ。それが男としての意地ってもんだろう。ただ、今の彼女は間違いなく旅の伴侶だ。恋人と同義ではないにしても、何だろう。
正確な言語化はまだ出来ないが、とにかく自由に話したいのだ。
「ねえ、狩也君。高校卒業したらさ、世界一周旅行に行こうか」
「…………色々準備しそうだな」
「面倒だって?」
「―――いや。お前と一緒なら、絶対行く」
言い切ってから己の発言の恥ずかしさを知り、照れ隠しでココアを飲み干す。空き缶となった缶をゴミ箱に放り込んで、俺は立ち上がった。
「そろそろ行くか」
俺の言葉を皮切りに、碧花もまた、残りのコーヒーを飲み干した。
「……うん。そろそろ行こうか」
心の中に地図を抱き、俺達は再び歩き出す。現代には秘宝もオーパーツもありはしないが、探してみれば、案外見つかるかもしれない。何が、と言われても、俺はこの旅の果てに何をしようとしているか決めていないから分からない。旅をしたいからしているのであって、電車とは違い、そこに終点は無い。
閑静な住宅街に、俺達の足音が刻まれる。この旅が、俺達に何かを与えてくれる事を期待している。
心なしか、碧花との心の距離が、今まで以上に縮まった様な気がした。
当てもなくふらふらと、しかし感触として慣れた喧騒を追い求める内に、俺達はこの地域の商店街に足を踏み入れていた。人通りが少なかったのはどうやらあの周辺だけだったようで、商店街の中は流石に活気がある。昼という条件もあるだろう。
「へえ……こっちは大分賑やかだね」
俺達の居る地域にも商店街はあるが、それはずいぶん昔に栄えた名残としてあるだけで、こんな風に賑やかではない。認識としては何となく存在する建物に近い。駅一つ違うだけでもここまで街の様子は変わるのか。
「なんか、すげえ新鮮だな」
「ああ。商店街が賑やかなのって漫画でしか見た事ねえよ」
道行く人達に偏りはなく、老若男女様々な人物が俺達の横を、或は前を歩いている。これだけ人が居ると如何に碧花が美人と言っても、芸能人でもない以上は目立つ道理が無かった。プールの時に目立ったのはスタイルが良過ぎたからだ。
「食べ歩きするには丁度良いじゃないか。色々お店とかあるみたいだし、楽しそうだよ」
「おう。因みにお前、今、何食いたい?」
「今……か」
碧花は暫くお店の方を眺めてから、俺の方を向いて指をさした。
「あれ、食べたいかな」
「…………コロッケか」
店の側面には幾つか席があり、どうやらそこで食べられるようだ。出来立てのコロッケは熱いし、食べたら身体が温まりそうではある。
「いいな。じゃあ食おうか」
旅の計画者は俺であり、主導者も本来は俺であるべきだ。碧花は飽くまで同行者に過ぎない。彼女の手を引きながら店の前まで行き、店主に声を掛ける。
「すみませーん! コロッケを二つ頂きたいんですけど!」
「あ、はーい! 少々お待ちくださーい!」
店主と思わしき妙齢の女性は俺に頭を下げた後、店の裏へと行ってしまった。看板では揚げたてが食えるとの事なので、裏の方で揚げているのだろう。
「少し時間が掛かりそうだな」
「まあ、揚げたてって触れ込みだしね。所で私はここだとしても、君の目を引く店はあったかい?」
「ん? まああったちゃあったけど。それはコロッケ食ってからで良いだろ。腹が減っては何とやらだ」
「忘れる程長くないと思うよ、その諺。―――っと。そろそろ出来上がりそうだよ」
店の中を覗き込みもせず、碧花が呟く。まさかと思ったが、およそ四〇秒後、本当に店主が戻ってきた。
「はいはいお待たせしました。コロッケ二つね―――あらあら! もしかして彼女さんッ?」
「……え? ああまあ何と言うか……はい。まあ、うん。そんな所ですけど」
「あら~美人さんね。ちょっと貴方、こんな美人さん彼女にしておいて、浮気なんかしたら怖いわよ~?」
「あはは……ご忠告ありがとうございます」
ここできっぱりと『トモダチ』と言えないのが俺の悪い所でもあり、今回ばかりは良い所だ。店主の声がやたらと大きいせいで通りがかる人々の視線が碧花の美貌に気付き始めている。
「代金は?」
「彼女さんが美人な事に免じて、二百円にしといてあげるわ。その代わり、絶対浮気しちゃ駄目よッ? 浮気は罪なんだから」
「……大丈夫です。絶対しませんから」
そもそも彼女ですらないので、するもしないも無い。何やら浮気に苦い思い出がありそうな店主を横目に俺達は横のベンチに座り込んだ。
「いただきます」
「いただきます」
揚げたてのコロッケに歯を立てた瞬間、サクッと気持ちの良い音が響き渡る。中は当然熱々で、俺は脊髄反射で口を離した。
「あっつ!」
「そりゃ熱いでしょ。揚げたてなんだから」
「いや、想像以上だったわ。ちょっと冷ましてから食おうかな……」
「揚げたてを食う意味とは何ぞや、とでも言いたくなる発言だけど。そんなに熱いかな」
「俺は熱い!」
熱い熱くないの言い争いに終わりは無い。そういう感情は主観でしか無く、である以上は結論なんて出しようがないのだ。そんな事は百も承知。俺はこの下らない時間を過ごしたかったのだ。この……和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気が好きなのだ。
家に帰ればいつでも味わう事が出来た感覚。妹が俺に与えてくれた幸せ。もう味わう事は出来ない。せめて死ぬ時くらい―――いいや、死んでほしくなんか無かった。誰かが死ななければならないのなら、俺が身代わりになってやりたかった。
何もかも後悔。何もかも手遅れ。あらゆる面で無力。
危うく忘れる所だった。そういうモノから逃げたくて、俺は碧花と旅を始めたのだ。最低でも一週間―――或いは一生。俺と碧花は旅をする。気がかりな事があるとすれば、萌達の事くらいだ。俺が旅に出た事は誰にも伝えていない。特に被害も受けていない由利なんかは、今頃俺を心配していることだろう。
「碧花。俺の方の電話に、着信とかあったか?」
「……気にしたくないと言ったのは君なのに、気になるんだ」
「いや―――まあ。うん」
「そんな顔しないでよ。意地悪したい訳じゃないんだ。でも心配する必要は無いんじゃないかな。きっと二人は仲良くやっているよ」
「そうかな」
表情を曇らせる俺を見かねて、碧花は元気づける様に微笑んだ。
「ああ―――今は仲良く昼寝でもしているよ。きっとね」
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