蝶よ小鳥よ何故逃げる
美原の声がする方向に、限りなく正確に向かったつもりだ。距離はともかく、方向は正しいから、少しずつ遠ざかりながら探せば、いつかは見つけられると思っていた。
「…………美原! 返事して!」
声が聞こえない。否、聞こえないばかりか……あれは本当に美原の声だったのかという疑念が、私の中に突如として生じてきた。まさか間違うとも思えないが、自分が思ってしまった以上は、その疑惑を自分で断ち切る事は出来ない。
「美原! 助けに来たぞ! 何処、何処に居るんだ?」
反応しないなんて話があってたまるか。木霊ばかりが返ってきても、私は声をあげるのをやめない。
「実は、他にここに来た人と合流したんだ! あの女をアテにする必要なんかない! もう狩也を探す必要なんて無いんだ!」
「勝手に決めちゃって。何様のつもりだよ、お前は」
美原の代わりに反応したのは、いつの間にか瓦屋根の上に立っていたあの女……水鏡碧花だった。しかしその風貌は、私達と一緒に居た時と微妙に違う。袖のない灰色の外套を羽織り、右目に包帯を巻いている。
―――もしかして、この女も怪物に襲われたのか?
その割には全然痛がっている素振りが見えないが。
「狩也君を見つける事は何においても優先されるべき事案だ。優先順位を変更するな」
「お前の事を良く知る奴から聞いたぞ! お前、水鏡らしいな!」
「…………へえ。誰に聞いたの?」
「萌と由利って奴からだ! 知ってんだろ、当然!」
「…………まあ、知ってるけど。私としては、何でその二人が居るのか小一時間問い詰めたいが―――いいか」
その後にも何か言っている様に見えたが、小さすぎて何と言っているのかいまいち掴めない。付け焼刃の読唇術で独り言が終わったのを見計らって、私は質問を続けた。
「何で黙ってた! 美原にバレるのが怖かったのか?」
「それこそ、何で、だろ。私が次期当主様を恐れる理由なんてないさ。どう考えてもあの時教えたら話が拗れるから、それを防いだまで。文句でも?」
「あるさ! お前もあの家の奴なんだろっ? ならどうして、そんな自由に振舞えるんだよ! 美原の辛さ、お前なら分かってんだろ!」
「非常に残念だけど、あの家とはもう何の関係も無い。アイツを助ける道理も義理も無いし、辛さが分かったからどうだって言うんだか。狩也君が関わらなきゃ、助ける気なんて更々起きなかったんだから、感謝して欲しいね。改めて」
視線そのものが物理的に上だからか、あの女の口調も、どことなく上から目線で、腹が立った。私はあの女を一度も上だとは思った事が無い。そんな女に上から目線で物事を語られるなんて、甚だ不愉快だった。
「誰がするかよ! そんなに感謝して欲しかったら、このまほろばを脱する方法を教えろよ!」
「狩也君を見つけたらね」
「電車、本当に動かねえのか?」
「…………まあ、今は動かないね」
「王ってのは何処に居るんだよ!」
とにかく、聞けるだけ聞く。幸い、この女は質問にだけはそこそこまともに答えてくれる……気がするから、時間が許す限り、疑問点を聞いて解消させなければならない。捕まえるのは、屋根に居る関係上、不可能だから諦めるしかない。
あの女は腕を組みながら、足元の瓦を何度も足で小突き始めた。
「……おかしいな。その事は、私と狩也君しか知らない筈なんだけどね。まさかそれも、その二人から聞いたのかい?」
「ああ! 二人から聞いて、その二人は部長から聞いたってよ!」
「………………ああ。成程。そうか、そうか。成程ね。つまりあれか。お前達は帰る為にここの『王』と会おうとしてる訳か。狩也君を差し置いて」
「あんな奴、私からすれば死んでようが生きてようがどうでもいいんだよ! 美原と一緒に無事に帰れさえすればそれでいい! 早く教えろよ―――
「あんな奴ッ?」
女の雰囲気が変わった。それは文字通り空気を変え、いつもと変わらぬ呼吸をしていた私の肺を、鋼鉄の如く重い空気で押し潰した。
「あんな奴……でも私にとっては、この世の何にも代えられない大切な大切な大切な大切な大切な大切な た い せ つ な人だ。それを大して面識もないお前如きが、あんな奴呼ばわりするのか?」
対面するだけで息が詰まる。あの時、駅で感じた怒りが実は全く本気で無かった事を、私は心の底から実感した。今、間違いなく心臓に汗を掻いている。これ以上この女性に歯向かってはいけないという、本能からの強い拒絶が何度も届いた。
しかし、
「ああ。だってアイツ、私の好みじゃないし」
気持ち悪い奴の恋愛観に反発して、何が悪いと言うのだろう。そんな女が好きな男を貶して、何が悪いのだろう。事実として、あの狩也とかいう男には何の魅力も見えなかった。比較者をつければ相対的長所は見えてくるかもしれないが、パッと見で長所と呼べるようなものが何一つとして存在しないのが、私から見た狩也という男だ。
長所の無い奴は褒められない。至って当然の理屈だろう。
「ああ。ああ、ああ、あああ。ああ、あああああああああああああ! そうだな、お前みたいな奴には彼の素晴らしさなんて説いた所で理解出来る筈が無いよな! ふっふふふふ。はっははははは。ああいいんだ、別に。狩也君の素晴らしさが分かるのは私だけで良い。でもさ―――限度ってものがあるよ。好きな人を馬鹿にされて、黙っていられる訳が無いだろ」
「…………何かするつもりか?」
「―――ああ、勿論。だが狩也君がまだ見つかっていないから、お前は後回しだ。私の言う事に従順だったなら、丁度変わりは居るし逃がそうかと思ったけど気が変わった。絶対に脱出方法は教えないし、『王』の下にも案内してやるものか。いやあしかし本当に人の気を逆撫でするのが上手だな。そういう奴は長生きしないぞ」
「私達は絶対逃げるし、お前が私達に協力的な態度を取らない限り、こっちも絶対にあの狩也とかいう野郎は探さねえぞ。お前はそれでもいいってのか?」
「もうその件はいい。特にお前には本当に腹が立った。勝手にすればいいさ。萌や由利と協力して、勝手に抗ってればいいさ。お前の言葉を借りるなら、狩也君以外の人間は生きてようが死んでようが ど う で も い い からな。それじゃあ失礼するよ。今の内にここでの暮らしには慣れておく事だ」
そう言ってあの女は視界の視界を切るべく建物の裏側に着地。私が急いで後ろへ回るも、その姿の一切が消えていた。
―――ふざけやがって。
あっちがそのつもりなら、こっちも絶対に逃げてやる。あんな女の思惑通りになんか、なってやるものか。
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