幸運にも、或いは凶運にも

 俺は彼女の純粋さをどう処理すればいいのか、分からなくなっていた。大人の授業と俺は言い、碧花も意味を知らなかったからてっきり違うと思っていたのに、話を聞く限り、完全にそれである。いや、その気があった事は何となく分かっていたが、それにしても純粋過ぎる気がする。お蔭で俺は碧花の胸の柔らかさを堪能できたが(今でこそ余裕があるが、されていた瞬間は恐怖やら動揺やらでそれ処では無かった)、この純粋さは危険すぎる。良くも悪くも、だ。

 そして恐らく彼女にしようとしていた事を想像すると、俺は畑川に生理的嫌悪感を抱かざるを得なかった。俺は想像力が豊かなのである。碧花の事が好きだから、というのもあるかもしれないが、仮に碧花でなかったとしても、怪物並みの嫌悪感を抱く事は間違いない。

「お、おま……おま…………!」

「…………? 何をそんなに、驚いているのかな?」

 今の所鏡が近くに無いので俺は俺の顔を見る事は叶わないが、きっと俺は耳まで赤くなっているのだろう。顔の温度を考えると多分そうなっている。碧花が首を傾げているのも、当事者でもない俺が顔を赤くしている理由が良く分かっていないからに違いない。

「…………ちょっとタンマ……!」

 この胸の底から這いあがってくる気持ち悪い感覚。これが生理的嫌悪感だというのなら、俺は畑川の事を怪物と同じくらい嫌悪しているという事になる。もう吐き出すものもないのに、俺は全力で胃液を流し台に叩き付けて、何度も咳込んだ。

「ゲホッゲホッホ……ゴホッ!」

 大人の授業、では言い方が悪かったかもしれない。だからと言って直接性行為と発言するのは憚られるが、俺ももう少し言い方を変えていれば、もしかすると三度目の嘔吐をする事は無かったかもしれない。流石に今回は心配した様で、俺が顔を上げると、流し台越しに碧花がこちらを見つめていた。

「ああ、俺は大丈夫だよ……うん」

 死体から離れる事で余裕が生まれたのは幸運だった。これでもまだ錯乱している様だったら、いよいよ俺は手遅れになっていたかもしれない。まあ普段だったら恐らくそうなっていたのだろうが、それでも俺が正気を取り戻し、ツッコめるまでに冷静になれたのは、碧花のお陰だ。彼女が居るから、どうにか俺は踏み留まれる。決して初めて味わう胸の感触が想像以上のものだったから、とかではない。俺の顔が押し付けられた個所は丁度下着と生の中間だったから、確かにそう言えなくもないが。

 改まった表情で、俺は碧花の方を向いた。

「碧花。お前それ……襲われてるぞ!」

「襲われてる……?」

「つまりさ、それって畑川先生が、お前の事を好きだったって事だろ? だから誕生日プレゼントまで贈った上に、携帯を壊してお前を押し倒したんだよ……」

 言っているこちらが恥ずかしくなってくる。教職者が何教え子に手を出しているのか。手を出すな、とは―――いや、これでもし俺達が高校生だったら言ったかもしれないが、俺も碧花も小学生だ。小学生に手を出すのは不味いだろう。色々な意味で。

「……で、先生は何て言ってたんだっけか」

「もう我慢するのは止めだ、とか何とか」

「うん。もう確実だよそれ。いいか碧花? 襲われてるっていうのはな、つまり先生はお前の事を一人の女性として見ていたって事なんだよ」

 気持ちは分かるが、分からない。確かに押し付けられた際の感覚からして碧花はブラジャーをつけるぐらいには発育が進んでいるが、それでも小学生だ。同年代の俺や他の男子ならばいざ知らず、三十路を超えた教師は問題しかない。禁断の恋という奴だ。状況はそんなにロマンチックではないが。

「良く脱出できたよな……」

 俺の安堵に、彼女は無言で懐からスタンガンを取り出して、俺に手渡してきた。最初、何故かそれを俺は髭剃りかと思ったが、普通に違った。馬鹿である。しかもこれ、おもちゃではなく本物だ。それを受け取り、理解した際の俺は、さながら初めて拳銃を触ったみたいな反応をした。

「な、何でこんなのを持ってるんだよッ」

「護身用」

 小学生が護身用にスタンガンを持つ社会だったとは考えたくないのだが、だとするならばこの国の治安は非常に悪いのだろう。とてもではないが起動する気にはなれない。俺は直ぐに彼女へ返した。



「……ん? ちょっと待て。お前これ使ったって事は、襲われたって認識してたんだろ?」



 碧花が目を逸らした。

「いや、先生の目が凄く血走ってたし、何より服の中に手を入れてきたからさ。反射的というか、本能で危険を感じたというか」

 怪物は理解不能という点で恐ろしかったが、畑川は理解したくないという点で恐ろしかった。完全に頭のおかしい奴である。死人に対して邪推などあまりお勧めできる行為ではないが、他の女子生徒を見ていてもそんな妄想を考えていたのかと思うと、寒気がする。男というものはどうしようもなくヘンタイな奴らが多いものの、もう少し理性はあるものだと思っていた。ごく一部には、それが無いらしい。

 同じ男性として恥ずかしい限りだ。

「まさか今になって死んでいるとは夢にも思わなかったけれどね」

「そりゃそうだろうな」





 この時、俺は彼女の発言に疑問を抱いていた。不信感と言い換えてもいいだろう。何故って、発言と状況が食い違っている。俺が彼女と出会った時、彼女はまるで取り乱している様には見えなかった。

 全部が全部嘘ではないと信じたいが、本能で危険を感じているというのは嘘の可能性が高い。仮に危険を感じていたなら、俺を発見した時点でもう少し取り乱しても良い筈だ。恥ずかしい話だが、俺だって同じ男な訳だし。今はそれ処ではないから疑問程度に留めておくが、何やら俺は彼女に危険な香りを感じていた。

「……まあ、いいや。とにかく無事で良かったよ。で、そういえばなんでここに来たんだっけ」

「塩水を作りにきたんだろ」

「あ、そうか」

 こればかりは本当に忘れていた。死体を見た衝撃か否かは問題じゃない。怪物と遭遇しないでいる内に、平和ボケしてきた事こそ何よりの問題だ。俺は無駄にした時間を取り戻す様に、調理室を漁り出す。塩は直ぐに見つかった。

「後は水だけだが。水って別に清めとかしなくていいよな」

「必要なんだとしたら詰んでるね」

 コップがなかったので、代わりに計量カップを使う事にする。分量がわからないので、一旦水を入れてから、海水の味になるまで塩を入れれば間違いないか。

「……ねえ。ちょっと待って。何か聞こえない?」

 俺が動くよりも早く彼女の手が蛇口を捻り、水を止めた。

「怪物か?」

「……」

 碧花は答えない。代わりに答えた足音は、静寂を通して俺の耳に入ってきた。

 厳密には、それを足音と言うべきではない。硬質な音とは言い難いし、音自体曖昧なくらい小さい。しかしそれは紛れも無い、何者かの足音だった。先程の怪物とは違う、また違った何か。俺は息を潜めて、その音に全神経を集中させた。

 その音は、まるでこちらの居場所を分かっているかの如く近づいてくる。このままでは以前の怪物と同じ様な状況に陥りかねない。

 先程から起きる緊急事態に、俺は調理室が嫌いになりそうだった。安心出来るとすれば、この足音の持ち主は相当小柄である事か。体重が重くて足音が軽い奴なんて居ない。多分。

 この時ばかり、俺達はプロの潜入工作員だった。確信のあった足音は次第に遠ざかり、俺も碧花も安堵した。




 直後。




 水の止まった蛇口から水滴が落下。流し台の床に叩きつけられた。




 と同時に、足音は急速旋回。猛スピードでこちらまで駆け出してきた。隠す気は最早微塵もない。この時点で俺は完全に自棄を起こし、隠れるのをやめて扉まで突っ込んだ。

「だああああああああ!」

 扉が開いた瞬間、俺が蹴っ飛ばしたのは。





 死んだはずの、畑川だった。 





「な……!」

 動揺に体を硬直させていると、後ろから飛び出してきた碧花が俺の手を引っ張った。

「早く!」

 畑川が立ち上がるよりも早く、俺達は調理室から脱出。今度は屋上まで駆け上がり、貯水ポンプの裏側まで移動した。

 あまりにも予想だにしなかった襲撃者に、俺は暫く動悸が収まらなかった。怪物に対する準備は出来ていたが、今度は死体が動くとは。足音も小さかっただけに、俺は今度こそ人形と会えるなんて期待していた。

「はあ、はあ、はあ」

「はあ……はあ……」

 小学生にしてはやけに肝の据わっている碧花でさえ、首のない死体が動いた事には驚きを隠せない様子だった。ここに来て、初めて彼女の動揺を目の当たりにした。

「も、もう嫌だ!」

 度重なる怪異に、俺はすっかり精神を蝕まれていた。幾ら一つ一つには冷静に対処出来ても、こう何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も訳の分からない事態が続いて、耐えられる訳がない。

 俺は直ぐに立ち上がると、屋上のフェンスに足を掛ける。

「な、何してるのっ?」

「決まってるだろ学校から出るんだよ! もう嫌だ、こんな遊び。俺はもう帰る! 無責任でも何でも知った事か! もう限界だ!」

「止めはしないけど。待ちたまえよ。君、そんな所から飛び降りたら生き残る保証は何処にも」

「煩い煩い! もう御免だ! 訳分からん怪物は居るし学校からは出られないし死体は動くしもうたくさんだ! これで学校がどうなろうが俺の知った事じゃない、俺はこうなる事を想定していなかったんだ! 最初からこうなるんならやんなかった。俺は、俺は悪くないんだよ!」






「いい加減にしなよ」






 俺の体が硬直した。背後に何か、とてつもなく大きな何かを感じる。

「降りろ」

「…………」

「聞こえなかったならもう一度だけ言う。降りろ」

 俺の意思とは裏腹に、体は彼女の言う事に従っていた。俺がフェンスから降りると、碧花が俺の背後に密着した。

「怖いのは分かるけどね。幾ら何でも目の前で死なないでくれ」

「……は、はい」

「強がらないで答えてくれ。君は今、何を考えてるの?」

「……怖い」

「どんな気持ち?」

「……泣きたい。逃げたい。忘れたい。もう全部、嫌だ」

「そう」

 碧花の声が柔らかくなった。彼女は俺の前に回り込むと、再び俺の顔を、その胸に押し込んだ。

「……え?」

 理解が及ばない。しかし俺の膝は支えをなくした様に崩れ落ち、彼女の胸に全てを預けた。

「泣きたいなら、泣けばいい。忘れたいなら、忘れればいい。君の母親にはなれないけれど……好きなだけ、そうすればいい」

 優しく、まるで幼子に語りかけるかの様に、彼女の声は、俺の意地を解した。

「強くなれないって言うんだったら、強くなれるまで、私は君を抱きしめよう。だからさ、もう。泣いてもいいよ」

 人は己をゴミ屑だと思っている時に慰められると、一層自分を惨めに感じてしまうものだ。その言葉をキッカケに、俺の男としての意地は崩壊した。言葉通り、俺は声も出ないくらい彼女の胸に顔を埋めて、声なき声で泣き続けた。

 そんな惨めな俺を、彼女は少しも離そうとしなかった。

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