キョムガヒロガル
気が付けば、野海を思い切り殴り飛バシテイタ。普段ならヤッテシマッタという後悔があるが、今度ばかりはツミの意識は微塵もない。
「グフッ…………!」
まさかオレが殴りかかってくるとは思わなかったのだろう。確かにナイフを持っている人間相手に殴りかかろうとする様な奴はバカだ。殺傷能力が違う。余程の馬鹿力でもない限りぶん殴って人を殺すなんて出来ないが(拳が凶器とされるのはボクサーなどの、殴るプロである場合が多い)、ナイフなら非力な人間でも誰かを殺せる。オレが素人である限り、『死の恐怖』からは逃れられないので、フツウならこんな事態は起きなかった。
だが、今のオレはフツウじゃない。
一から百まで丸っきり出鱈目な事をオレの目の前でべらべら喋り、挙句オレよりも碧花の事を知っているだと? それはオレに対する侮辱ではなく、碧花に対する何よりの侮辱だった。
「オマエが、碧花をシッテイルだとッ?」
心の中が侵食サレテイク。虚空に、深淵に。何かがオレの心を喰らいつくして、理性を外して、望むがままの全てを行えと誘ってくる。カマワナイ。抵抗などするものか。てい、こう、な。しない。しない。しない。しない。死ない。死無い。
「き、貴様! 良くも…………!」
胸倉を掴み、近くの幹に背中を叩きつける。負けじと野海もナイフを突き出してくるが、それよりも早く俺の拳が彼を殴り飛ばし、その手元からナイフを吹き飛ばした。
「あッ!」
ナイフが離れたと分かるや、ノウミは殴られる事を気にもとめず、前転して再びナイフをキャッチ。オレから距離を取って、今度は近づかれない様にナイフを見せつけようとしたが―――
「……ヒッ!」
オレの瞳を覗き込んで、動きが止まった。それが致命的な隙となり、間もなくノウミの手からナイフが奪われた。
「フザケルナアアアアアアアアアアアアアア!」
間髪入れず、オレは奪い取ったナイフを振り下ろして、ノウミの左手を切り裂いた。力任せに振り抜いたせいで刃が歪んでしまったが、再利用される事を阻止したと考えれば、一石二鳥だ。
「ぎゃああああああああ!」
どんな人間も、最初に怪我をすれば泣く。それは怪我をした事が無いから。痛みを知らないからだ。痛みは重ねれば慣れてくる。慣れれば痛くなくなるだろうし、少なくとも泣く事はない。だが、それには限度がアル。
野海は泣いていた。夥しい量の血液が地面に流れ、血の溜まり場を足元に作ろうとも、手を抑えて泣いテイタ。オレのやった事が信じられないと罵る様に。悪党の所業をこの目で見たと言わんばかりに。
「お前に、碧花の何が分かる……アイツは、人殺しを好んでする人間じゃない。傍観者と理解者は両立出来ない。絶対にナ」
「ああああアア! 腕、うで、ウデええええええええあああああああああ!」
もう片方の手で圧迫した程度で塞がる傷口ではない。血は際限なしに溢れ続け、足元の茂みに零れ続けている。それはきっと、野海の命が停止するまで終わらない。目の前の男に強いられているのは、一般人には想像もつかない様な激痛との対決。
死んでしまった方がマシとも思える、究極のクルシミ。
ノウミは喉が張り裂けそうな程の喘ぎ声をあげているが、張り裂けそうなのと実際に裂けているのとではあまりにも違い過ぎる。まだまだ出血も、喘ぎ声も、オワラナイ。
「オマエは碧花のナニを知ってる? 俺はアイツの良い所も知ってるし、悪い所も知ってる。だけど俺は、決してアイツの事を崇拝したりはしない。アイツは只の女の子だって知ってるんだ。アイツは異常者じゃないって知ってるんだ! だから俺は―――碧花の事が好きなんだ!」
「あ、ア゛ア゛ア゛ア゛……うう!ぐ、ぐうううううう!」
「俺は傍観者気取ったお前なんかより、ずっとアイツの事を見てきた。アイツと一緒に過ごしてきた。アイツに振り向いて欲しくて、アイツに喜んでもらいたくて、アイツに抱きしめてもらいたくて、アイツに男として見てもらいたくて。その為にアイツの事を知ろうとしてきた! お前の考えてる様な頭のおかしい奴なんかじゃ断じてない! 碧花は―――」
こんな事、本人が聞いている可能性がある場所ではとても言えない。彼女が蝋燭歩きによって意識を失っていると分かっているからこそ、言える言葉だ。
「世界で一番、素敵な女性だ!」
俺の心に広がり続ける『それ』は、急に侵食を止めた。原因は分かっている。理性を削ぎ落とし、解放を促してきた『虚空』は、何の事は無い、俺みたいなヘタレとネガティブの権化みたいな人間なら誰しも持ってる『羞恥』によって上書きされていたのだ。
本人が聞いていないと分かっていても、発言自体が恥ずかしい自覚はあるのだ。それでも、この男だけには負けられなかった。碧花という女性の理解度において、彼女の『友達』である俺が負けるなんて許されなかった。誰が何を言っても、他でもない俺が許容出来ない。
多分、そういう気の小ささも彼女が出来ない原因だろう。碧花に異性として見てもらえていないのも―――原因の一つである事は間違いないだろう。
それも含めて俺だから、変えようにも変えられないが。
「…………帰れ。二度と俺の前に姿を見せるな」
今しかない。俺が今まで通り、俺として野海と触れ合える時間は。これ以上彼の姿を目にするか、彼の妄言を聞こうものなら、今度はいよいよ取り返しのつかない事をしてしまうかもしれない。脅しのつもりでナイフを突きつけて、腹の中に力を込めて言った。
「今度会ったらこれだけじゃ済まさないぞッ!」
「ひ……ぐッ、うううううううううう!」
野海は怨嗟を込めて俺を一瞥した後、血痕を残しながら暗闇の中に走り去っていった。逃げてる時はあれだけ明瞭だった景色が、ふと気が付けば、何も見えなくなっていた。暫くは茂みによる影響で野海の足音が聞こえていたが、それも暫くしたら聞こえなくなった。森の中を直進するという行為は、幹の存在もあって出来ないので、仮に今同じ方向に俺が走ったとしても、あの男の下へ辿り着く事は出来ないだろう。
「……………………」
俺はその場に崩れ落ちた。ここまで体力が無い自覚は無かったのだが、どうにも心の疲れは、身体を休めただけでは治らない様だ。暫くボーッとしていると、碧花と同じ様に俺も眠気を感じ始めた。ただし体温が奪われている感覚は無い。本当に眠いだけだ。
―――眠。
眠ってしまえば、その間俺は無防備だ。蝋燭歩きにも、オミカドサマにも太刀打ち出来ない。立てば眠気が解消されるだろうと思ったが、足に力が入らない。今更になって、人を切ったという事実が俺を脱力させていたのだ。誰かに唆された訳でもないのに、全く情けない話である。
「………………ああ」
重力に従い、俺の上体は地面に倒れ込んだ。
眠気に抗えない。まだ碧花を助けていないのに……眠ってる暇なんて…………ない…………碧花……………俺………………救………………。
ありがとう。
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