酔夢の世界の『俺』達



「天奈、待ってくれ!」


 彼女は間違いなく歩いているにも拘らず、全力で走っている俺が追いつくにはかなりの距離を既に歩いていた。それでも速度の観点から言って俺が追いつくのは時間の問題であり、そもそも声であれば間違いなく追いついている。


 なのに彼女は、反応すらせず、只何処かへと歩き続けている。


「お前に言いたい事が……言わなきゃいけない事があるんだ!」


 妹の背中が徐々に近づいてくる。まるで彼女の背中に到着する事を阻む様に、やたらめったら木の根っこに足が引っかかるが、それでも転ばない。転ぶわけにはいかない。一分一秒たりとも俺は妹から視界を離さない。幽霊でも幻覚でも何でも良いが、そういう存在は少しでも目を離した瞬間、消えてしまうと相場が決まっている。


 だから絶対に、目を離さない。


「俺は……悪いお兄ちゃんだ! お前には至って普通の、血とか死体なんて全く関係ない人生を送ってもらいたかった! その為に絶対守ると心に決めた! なのに…………お前は悪くないのに……」


 それは後悔になる。榊木唯南から俺が逃げなければ、彼女は俺の家を探さなかったし、妹が誘拐される事も無かった。俺があの時、あの少女の『首狩り族』に対する執着を見抜けなかったから。今までは『俺にも出来る事があった』とは思いつつも、心の何処かでは不可抗力だと考えていた。未来予知でも出来なければどうにもならないものだとどうにか納得していた。


 だがあの件に関して、それは通用しない。間違いなく不可抗力では無かった。少なくとも俺があの時、榊木の前から逃げなければ、違った結末があったのは言うまでもない。俺が逃げたがばっかりに妹が死んで……萌が、レイプされる寸前まで追い込まれた。それは紛れもない事実である。


「言い訳なんかしない! 本当にごめん! 本当にごめんなさい! 妹の事も碌に守れなくて、俺は兄貴として恥ずかしい…………!」


 後悔と苦悩のあまり視線を下げそうになる―――寸前、今までひたすらに突き進んでいた妹の歩みが、止まった。


「……俺は!」


 今しかない。


 この瞬間の俺は、きっとどの時の俺よりも速いだろう。それくらい足の動きを早めて、一気に距離を詰めた。きっと俺の声が聞こえたのだ。そうでなければ立ち止まる理由がない。そうとしか考えられない。


 妹の肩に触れるまで、後、数メートル。


「こんな兄貴を許せなんて言わない。一生許さなくたっていい! だから……だからお願いだ! 天奈! 幻覚でも妄想でも死んでいても何でも良いから―――」


 妹の肩を掴まんと、手を伸ばす。




「戻ってきてくれ―――!」




 伸ばした手が、確かに妹の肩を掴む。しかし、その掌に生まれる筈の感触は無く、掴んだというのも厳密には俺の錯覚だった。伸ばした勢いそのままに手は妹の身体をすり抜けて、勢い余り俺自身もすり抜ける。


「うわッ!」


 肩で受け身は取ったが、これで妹の姿は俺の視界から外れた事になる。慌てて立ち上がって周囲を見渡したが、案の定、妹の姿は見えなくなった。


「…………」


 元々が居ない筈の妹を見つけてしまった事による衝動的行動だったので、妹が居なくなれば行動理由が無くなる。言い表せぬ虚無感に襲われた俺は、その場に座り込んで明後日の方向を見つめた。



 ―――こんなのって無いだろ。



 ここは邂逅の森。もう二度と会えない人物ともう一度だけ会える要にする森。果たしてその特異性は真実だった訳だが、嘘であればどれ程良かったかと、俺は人知れず溜息を吐いた。


 もう一度だけ会えるというのは、何も話せる訳では無いらしい。それなら会いたくなったとしてもここを使うべきじゃない。もう一度だけ会話出来るならともかく、俺みたいに見掛けるだけで終わった場合、猶更心残りを生みかねない。現に俺自身、更に会いたい気分が強くなってしまった。忘れるなんて出来そうもないくらい。


 肩に掛かる筈だった手を開く。そこには何故か指が入っていた。


「…………え?」


 どうしてこんな所に指が。いやそもそも―――何処にあったとしても俺の手の中から出てくるのはおかしい。


 困惑しか出来ないでいると、突然後ろの方から足音が聞こえてきた。碧花達だろう。あの話の流れで花畑を突っ切ったのだから、きっと怒っているに違いない。



 ―――戻ろう。



 妹には会えたが、結局何かが解決する事は無かった。なら、もう旅に戻ろう。俺は立ち上がり、背後の音にまるでたった今気づいた様な素振りを見せつつ振り返る。


「……いやあー悪い悪い。今さ、ツチノコが居た気がし…………た…………」


 完全に身を翻した瞬間、俺は直感的に悟った。あの妹は幻で、しかも餌で。俺を釣り出す為にあったのだと。目の前の『鏡』の表情が、それを告げている。


「よ。オレが誰だか分かるか?」





「………………うわあああああああ!」





 俺の背後からやってきたのは―――事実をありのままに述べるなら、『俺』だった。















 ドッペルゲンガー。


 自分の姿を自分で見る幻覚。オカルト的に言えばもう一人の自分。出会ってはいけない存在と言われている。俺の目の前に居る男が間違いなく首藤狩也である以上、それを『鏡』と言わずして何と言おう。ドッペルゲンガーと言わずして何と言おう。


 正解かどうかについて『鏡』は言及しない。その上で、にわかに尋ねてきた。


「で、ツチノコが何だって?」


「………………な、何で!」


「ん?」


「何でお前、いや俺……碧花達はどうしたんだよ!」


「悪いが、合流はさせないぞ。そんな事よりも、今からお前にとって重大な質問を一つする。沈黙は無しだ。準備は良いな?」


 俺にしては、妙に押しが強い気がする。


 ドッペルゲンガーが俺の分身だとするなら、この押しの強さは違和感しかない。これ以上質問しても無視される気が大いにするものの、しかし敵意は感じない。最初こそ驚いたが、途中から落ち着いた俺はむしろ質問を促し、さっさと終わらせる方向に思考を切り替えた。


「…………言えよ。じゃあ」


「話が早くて助かる。まあお互い自分だから当然か。それじゃあ単刀直入に言わせてもらうが」



「オレに首藤狩也を譲る気は無いか?」



「は?」


「いやだから、オレに俺を譲る気は無いかって聞いてんだよ」


 そう言われても、全然意味が分からない。俺に俺を譲るとは何だ。


「……分かった。順を追って話してやるよ。元々そのつもりでお前をこっちに引っ張ったからな」


「引っ張った…………じゃあお前が、天奈を出したのかッ?」


「ああ―――」


 その言葉を聞いた瞬間、心よりも先に身体が動いていた。相手が他人なら躊躇した所だが、他でもない俺ならば、躊躇なんてしてやるか。今まで何度自分を殴りたいと思ったか。しかし痛いのは嫌なので、結局殴る事は無かったが、目の前に『俺』が居るなら話は別だ。


 全霊の力を込めた一撃は『俺』の頬にめり込み、吹き飛ばした。『俺』は抵抗もせずにぶっ飛んで、地面に叩きつけられる。


 間髪入れずに俺は馬乗りになり、『俺』の胸倉を掴んだ。


「ふざけんじゃねえよ! お前が『俺』なら分かってる筈だ! あいつが、天奈が俺にとってどんなに大切か、知らないなんて言わせないぞ!」


「勿論知っている。だからオレは尋ねた。そもそもオレはお前の姿をしているが、お前のドッペルゲンガーって訳じゃない。別人だ」


「……じゃあお前は、誰だよ」


「そんな事、お前に言っても仕方がない。一応言っておくと、この提案はお前にもメリットがある提案なんだぞ?」


「何?」


「妹に……会いたいんだろ?」


 胸倉を掴んでいた手が硬直する。『俺』はニヤリと笑って、胸倉を掴む俺の手を引き剥がした。


「天奈に、会えるのか?」


「ああ、会える。オレに首藤狩也を譲ってくれればな。話せるし、触れる。お前にとって日常だったものが帰ってくるんだ。良い提案じゃないか?」


 『俺』の言う通り、目の前の男は本当に別人だ。俺はここまで交渉上手じゃない。しかし気になるのは、その要求の意味だ。首藤狩也を譲れとはどういう事なのか。本人に言わせれば目の前の『俺』は何処からどう見ても首藤狩也であり、本人ですら見分けがつかない存在を、一体誰が偽物と見抜けよう。


「俺を譲るって、どういう事だ?」


「そのままの意味だ。オレはドッペルゲンガーではないが、それでもお前が譲ってくれない限り、俺は偽物でお前は本物だ。だから本物を譲ってくれって事だ」


「―――すまん。マジで何言ってるか分からねえ。俺の頭にも理解出来る様に言ってくれないか?」


 嘆かわしい事に、自虐出来るくらいには俺の頭は悪い。『俺』はその言葉に苦笑すると、懐の方に手を入れた。


「……分かった。お前でも絶対に分かる様に説明しよう」


「頼む」


 口には出さないが、俺は同じ姿形を持つ『俺』に少なからず好感を抱いていた。俺にしてはやけに親切な気がする。妹をダシに使ったのは許していないが、本当に会わせてくれるなら、それも水に流すつもりだ。


「良いか? 偽物ってのは、そもそも本物があるから偽物って呼ばれるんだ。本物と些細な違いがあるだけで、偽物だ。オレとお前の違いが、分かるか?」


 違い……は、無い。さっきも言った通り、全く同じなのだ。もしかしたら毛髪の量とか違うかもしれないが、毛髪は一々数えられるくらい少なくない。本当にそのくらいで、まるで鏡に映った自分を見ている様だ。


「……分からないか?」


「全然分からん。違いなんかあるのか?」


「ああ。大いにあるさ―――」



 ズッ!



 腹を突き抜ける無機質な感覚。視線をお腹の方に落とすと、俺の腹部に、根元までナイフが突き刺さっていた。  


「…………え」







「お前には魂があるが、オレには無い。だから―――オレが首藤狩也にナルタメニ、シネ」



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