ようこそ、新世界
その後も暫く碧花は俺の事を心配して離れなかったが、何度も説得して、ようやく離れてくれた。大丈夫だと言っているのに、さっきのは俺がどうかしていたのだ。
「これって、入っても良いんかね」
この花畑が自然的に作られたとは考えにくい。人工的に育てられたと見るのが普通だ。しかしそれならそれで気になる事がある。
まず、注意書きが無い。
ここまで見事な花畑だと、花をむしり取って持ち帰ろうという不届き者が一定数現れるのは必然の理。この花畑が誰かの所有物なら注意書きの一つや二つくらい、あって当然の筈だ。しかしそれが無い。単に知られていないだけという可能性もあるが、それも度々来訪がある事、そもそもここまで道が整備されている事からも考えられない。
俺が迷っていると、美原がぽつりと呟いた。
「大丈夫、だと思います」
「え?」
振り返るとまた怖がられる恐れがあるので、俺は振り向かない。神乃は殴る事こそやめたが、睨むくらいはしてくるので、それが嫌なのだ。不発弾をすすんで爆発させようとする命知らずは居ないだろう。
「何でそう思ったんだ?」
「……注意書きが、無いので」
危うくずっこけそうになり、ギリギリの所で抑える。結局俺と同じ発想で拍子抜けしたというか何と言うか。その理屈はある意味では正しく、ある意味では間違っている。書かれていないからと言って、それが合法であるという話にはならない。文面通り―――無機質に解釈すれば、合法なのだろう。しかしながら、今に挙げた様な理屈を、一般的に屁理屈と言うのだ。
「駄目だよ」
俺の心の中を代弁する様に、碧花が呟いた。
「注意書きが無いから入っても大丈夫、という理屈には賛成だけど、入る事には反対だ。そもそも君はどうしてこの中に入りたいの?」
「いやだって……一回くらい、寝っ転がりたくないか?」
それは単なる欲求。初めての事をしてみたいという、純粋な好奇心から来る言葉だった。俺はゲーマーを名乗れる程ゲームに心血を注いでいる訳ではないが、ゲームは好きだ。その理由には、『現実では出来ない事が出来るから』というのがある。
可愛い女の子と相思相愛になって、お付き合いする。これも、今の俺には出来ない。
一人の兵士となって、敵勢力と戦闘する。これも、俺がこの国に居る限りは出来ない事だ。
上に挙げたのは極端な例だが、花畑に入って寝転がったりするのも、現実には出来ない事だ。マナーの観点からこれは自然な事だが、それでも出来るなら、一度はやってみたかった。
「成程……君の言い分はよく分かった。しかしだね。これだけ隙間なく花が敷き詰められているんだ。入ろうと思ったら幾らか踏み潰す事になると思わないかい」
「いや、それは分かってるんだけど……」
「これが、例えば君の好きなゲームなら話は変わってくるとも。判定を無くしてしまえばいい。でも現実はそうはいかないんだ。人が入れば景観が損なわれる。君がこの景色を見て素晴らしいと思ったのなら、入るべきじゃない」
ぐうの音も出ない正論に、俺は言葉を失った。これだから俺は彼女との口論を回避したいのだ。元々この勝負はテーマからしてこちらが不利だったとはいえ、ここまで完璧に言われると、粘る事も出来やしない。
屁理屈ならば無限に捏ねられる。例えば『この景色を見て素晴らしいとは思わなかったので、入っても良い』と。しかしこれはこれで自分の気持ちに嘘を吐く事になるので、言うつもりはない。
「……はあ。そうだよなー。はあ……入りたいなあ」
「そんなに入りたいなら自分の庭にでも作ればいい。自分で作ったなら、誰も文句は言わないよ」
「ばっきゃろう。俺ん家の庭せめえよ。それにこんな沢山の花の世話……無理があるぜ」
俺は露骨に肩を落として再び坂を上り、崖となって突き出ている部分に腰を下ろす。入れないなら、せめて最高のアングルから眺めるとしよう。
―――入りたかったなー。
未練タラタラなのは内緒だ。口に出さなければ誰にも気づかれない。
しかし本当に綺麗な場所だ。辺り一面真っ白い。こういう所で結婚式とか開けたら、どんなにロマンティックな式になるだろうか。俺は思考の中で花嫁姿の碧花を想像した。
普段は黒い彼女が真っ白いドレスに身を包んで、俺の前に現れる。彼女が目の前まで来ると、俺はベールを上げて、改めてその美しい顔を見据える。そして神父からの問いかけに応えた俺達は、誓いのキスを交わす。
…………我ながら、付き合ってもいないのに気持ち悪い想像である。認めたくないが、俺にはストーカー気質があるのかもしれない。その内『君は運命の人だ!』とか何とか発狂して碧花を困らせない様に注意しないと。
「…………あん?」
俺に気を遣っているからなのか、三人とも下の方で談笑している……談笑。
談笑ッ?
危うく崖から落ちそうになったが、残念ながらそこに碧花は居ない。少し離れた所で眺めているだけなので、要するに見間違えた。
いつもの碧花が見れて安心する反面、普通に彼女達と話している碧花も見てみたかった。俺以外には本当にぶっきらぼうに接するものの、その中身は周り以上に女の子なのだと知っているからこそ、その側面が見たかった。
落胆して、再び花畑に視線を戻す―――その道中。二度見をする形で、俺はそれを見た。
「…………え」
ついさっき、遥かに近距離の景色を見間違えた手前信じられなかったが、それは確かに背中を向けていた。
「………………あ。あ、…………ああ!」
『 』だ。あの時の服のまま、あの時の髪型のまま、あの時の姿のまま立っている。後ろ姿とはいえ、俺は兄貴だった人間だ。間違えるものか。
「な……何で」
『 』はまるで俺が見つけるのを待っていたかの様に、突然森の奥へと歩き出した。反射的に後を追おうとするが、ここは崖の上だ。一度立ち上がって坂を下りると、三人の事も無視して、花畑の向こう側―――『 』が立っていた方向まで、一気に駆け抜ける。回り道していたら絶対に間に合わない。勿論花の中を突っ切る。
「待って! 待ってくれ!」
俺の制止も空しく、『 』はゆっくりと奥の闇へと消えていく。花畑を見事突っ切った俺は、傍らに倒れていた看板の存在にも気づかず、『 』が消えた闇の中へ足を踏み入れた。
「天奈あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
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