合わせ鏡の向こう側
この場所からあの神社まで全力で走れば一時間程度か。やはり彼女の就寝後に行った方が良い。幾ら彼女の風呂が長いと言っても、行きはともかく帰りで気付かれる。浴衣姿で走る事になるならば猶更だ。
「や、お帰り。浴衣似合ってるじゃん」
「さんきゅ。次お前な」
「勿論分かってるとも。風呂に入らずに眠るなんて不潔極まる。入らせてもらうよ。かなり長い間ね」
碧花は今までの無防備さから一転。スッと立ち上がり、まるで疲れを感じさせない動きで、浴室へと歩き出した。部屋に案内された瞬間横になった人間とは思えない軽快な動きである。
「お前、疲れてたんじゃなかったか?」
浴衣姿ですっかりくつろぎながら俺が尋ねると、碧花は脱衣所の直前で停止。振り返ろうとして―――やめて、こちらに顔を見せずに呟いた。
「疲れで無防備な姿勢を見せたら君が襲ってくれるんじゃないかと、期待したんだよ」
「嘘吐け」
「さあて、どうだろうね。私が出るまでの間、一人で考えて悶々としてればいいさ」
意味深な言葉を残し、彼女は浴室へと姿を消した。無防備かどうかはともかく、無警戒なのは間違いない。彼女は脱衣所で服を脱いでいる筈なので、俺は壁に半身をつけて耳を澄ませた。
ゴソ……ゴソゴソ……パサッ。
うわあ滅茶苦茶見たい。
碧花程の巨乳であれば、当然ブラジャーも大きく、アダルトなものになる。アダルトは多分彼女の嗜好だが、それはどうでもいい。家で彼女の下着を見た時でさえ俺の理性は制御不能になりかけたのに、この扉を開ければ下着と言わず、生が見られる。しかも修学旅行で行う覗きとは違い、誰かにバレる心配もない。
「狩也君…………」
一瞬バレたかと思い、生きた心地がしなかったが、それはどうやら嘆息にも似た独り言だった様だ。後ずさりそうになって損した。というかこの状態のまま後ずされば間違いなく背中が机の角に激突していた。危ない危ない。
もう少し耳を澄ましていると、脱衣を済ませた碧花はさっさと浴室に入ってしまったので、これ以上は聞こえない。流石に壁二枚越しでは、余程大声か大きな音を出してくれないと聞き取れそうもない。
―――さて、そろそろ準備しないとな。
浴衣から着替え直すのは面倒くさいし、そもそも着替えたら俺が出かけようとしている事が露呈してしまう。準備というのはそれではなく、就寝準備の事だ。寝具は敷布団で、自分で敷けと言わんばかりに押入れでまとまっている。これを俺が一人で用意する事で、彼女が就寝するまでの時間を一気に短縮させる。
布団は重いが、どうという事は無い。これよりも重いものは何度も持ってきた。二人分一気に持ち上げて、慣れた動作で奥の部屋に敷く。この手の仕事は修学旅行で経験済みだ。布団を敷く者の特権として、さりげなく碧花用の布団を密着させておく。
修学旅行では、中の良い奴がこんな風に距離を詰めて一緒に布団を被り、隠れてゲームをしていたのを覚えている。女子部屋に行く勇気は無かったので、当時の俺は一人で先に寝ていた。あの時は悲しい気持ちになったが、この出来事を味わう為の前払いだと考えるなら安いものだ。学校で一番、下手すれば町内で一番美人な碧花と一緒になって眠れるなんて。しかも俺も彼女も若い。そして異性だ。異性二人が超近距離で触れ合って、何も起こらない筈がなく―――
まあ何も起こらないのだが。
何か起きたら俺はヘタレを自称しないのだ。自称するという事はそれなりに自信があるという事であり、ことヘタレる事に関して俺は凄まじい自信を持っている。マイナスな自信であるのは言うまでもないが、ともかく、ヘタレチャンプに可能は無い。あらゆる全てが不可能と化す。
「…………何も起こらないのって、幸せだな」
死なない。
変な奴も現れない。
誰も傷つかない。
この瞬間だけ、俺は自分が人間でない事を忘れられる。この時だけ―――素直に恋する事が出来る。
まったりする事五〇分と少し。考える事も無くなり、あの奇妙なお店の事について考えていると、浴衣姿に着替えを済ませた碧花が脱衣所から出てきた。
「お待たせ。待った?」
「おう。かなりな」
しかし待っただけの甲斐はあり、浴衣姿の彼女を見れたのなら、それだけでおつりがくる。風呂上がりという状況もあって、今の碧花はいつもより艶っぽい。本人のキョトンとした表情から察するに、全く自覚していないらしい。
「君が敷いておいてくれたの?」
「おう。意外とフカフカだぞ。お前も座るか?」
「もう少し髪が乾いたらね。こういう時、髪が長いのは損だよ。乾かすのにも時間が掛かるし、洗うのにも時間が掛かる。髪―――切ろうかな」
「えッ」
俺は目の色を変えて、彼女の肩を力強く掴んだ。
「それは駄目だ!」
「え、え……ちょ、どうしたの?」
「俺、お前の髪、滅茶苦茶好きなんだよ! だから……その、どうしてもって言うなら止めないけど。俺は―――そのままでいてほしいなって」
「…………え」
短髪も見慣れれば何も思わなくなるだろうが、それはそれとして俺は彼女の長髪が好きだ。丁寧に手入れしていると言っても、ここまでの鮮やかさは生来の物でなければあり得ない。ならばその扱いは、芸術品と同じ様に丁重にすべきだ。
「洗うのはともかく、乾かすのが面倒だったら俺がやるから……頼む。切らないでくれ!」
「―――君が彼女出来ない理由が分かった気がするよ」
「へ? どうしたんだ、急に」
「いいや。普通の女性だったら、好きでもない男性なんかに髪を触らせないって事だ。気持ち悪がられるだろうから、その言葉。他の人には使わない方がいいよ」
なんか注意された。複雑な気分である。
「でもまあ、君がそこまで言うのなら切るのは無しだ」
「本当か?」
「うん……そこまで私の髪が好きだって言ってくれるのは君くらいなものだからね。その―――嬉しいよ、狩也君」
何だかよく分からないが、碧花が上機嫌になった。一体何にそんな喜んでいるのだろうか。普通に考えれば俺の発言を受けて、だが、俺は特別彼女の機嫌を取る様な発言をした訳じゃない。単に長いのが好きだから切らないで、と言っただけだ。
「お、おう」
「さあて、そろそろ寝る準備をしようか。私はもう少し髪を乾かしてから寝るつもりだけど、君はどうする?」
「お前が寝るまで寝ない。話し相手にでもなってやるよ」
「それはまた―――願ってもないね」
だって寝てくれないと、俺はあの巫女さんに会いに行けないのだし。
碧花が寝床に入ったのは、それからかなり後の事だった。正直、長すぎて/楽し過ぎて覚えていない。元々の時間を記憶していればそこから逆算出来ただろうが、元々の時間も覚えていないのなら、もう逆算不可能だ。
その話はどうでもいいとして、俺はこの作戦の欠点を一つ挙げたい。それは、浴衣姿で外を駆け回らなければならないという事だ。これの何が不都合か。
まとめてみた。
その一。目立つ。
昔ならばいざ知らず、今時浴衣姿で外を歩き回る奴は珍しいにも程がある。目立たない奴が居たら、そいつは多分その地域の名物とかそんなんだろう。
その二。慣れない。
着心地、という言葉がある様に、着た時の感触というのはとても大事だ。その点で語ると、普段着ている洋服なら、多少の差異こそあれ一定の着心地は保障されるものだが、これは違う。着心地が悪いというか、むず痒いというか……まあともかく、落ち着かない。
その三。歩きづらい。
説明不要。浴衣は魔改造を加えない限り歩きにくいものである。と言っても普通に移動するくらいなら支障はない。全力で走る時に弊害となるだけで。
一歩一歩の歩幅の差が僅かと言えど、それが何百何千歩にもなれば、差も加算方式で大きくなる。俺の想定よりもプラス四〇分を経て、ようやく神社に到着した。
「ハア……おおおおううううあああああッ」
脇腹が尋常じゃなく痛い。脇腹が痛くなる人間なら分かると思うが、これを治す為には一度立ち止まるか、開き直って動き続けるかの二択しかない。前者は立ち止まっていても暫く呼吸が苦しいくらい痛いし、後者は俺も一度しか成功していないのでお勧め出来ない。
むしろ良く走り切った。走破後のご褒美を要求したくなるレベルである。
「ああああうううおおお……ああ、ああああ」
今が何時なのかは知らないが、相当な夜である事は間違いない。こんなに奇声を上げているのに、誰一人として反応しない事からも、それは明らかだ。
「……あの。どうかしましたか?」
そんな俺の規制に唯一反応してくれたのは、あの巫女さんだ。案の定というべきか、何で居るのかというべきか、相変わらず箒を持ったまま、朝の頃と変わらない姿を見せている。
「あ、巫女さん……どうも」
「貴方は朝にここを訪れた人、ですよね。ここには何も無いとお教えした筈ですが」
「そうなんですけど……俺、貴方の質問にまだ答えてなかったので、答えようかなと」
「……それでわざわざ来たんですかッ?」
きっとこの巫女さんは、俺の事を負けず劣らずの変人だと思っているに違いない。幾ら質問に答えないのが失礼だと言っても、真夜中に、しかも浴衣姿で来る奴は居ないだろう。
まだ脇腹が痛い。これ以上走ると死ぬ。多分死ぬ。
「―――貴方は不思議な存在ですね。わざわざここに来るなんて」
「…………それで、俺についてなんですけど」
痛みに耐えながらも、早速用件をこなそうとすると、巫女さんが人差し指を口の前に立て、それから鳥居の先に腕を向けた。
「お待ちを。その恰好のまま神社の前で話されても困ります。どうぞこちらへ」
「こちらへって……御堂には何も無いんじゃ」
「表側は、確かに何もございません。しかし裏側は、私の生活スペースでもありますので。お話をする程度であれば、くつろげるかと」
だからあの時、裏側から出てきたのか。俺達が来るのを知っていて出待ちしていたのかと邪推していたが、杞憂だった様だ。俺もこんな状態で巫女さんと話すのは何となく恥ずかしいので、願っても無い提案である。彼女に先導される形で、俺は再び鳥居を潜った。
「そう言えば、名前を尋ねても良いですか? ずっと巫女さんっていうのも辛いですし」
「―――あ。これは失礼をいたしました。確かに名乗り忘れていました。あの時はお二人に気まずい空気を与えまいと必死で……申し訳ございません」
「いや、別に良いんですよ。それで、名前は。俺は首藤狩也です」
「私は―――」
その単語を聞く事になると、一体誰が予想した。
彼女が口に出した単語は非常によく知っている。簡単に被る様な単語でない事も知っている。
だからこそそれが被った時―――俺は、頭が真っ白になった。
「
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