或いは幻の縁
「うーん。疲れた」
部屋に案内されて二人きりになるや、碧花はその場に寝転んでしまった。学校で男子の視線を一身に背負う女性とは思えない無防備さだ。俺でなくても襲いたくなる。
「おいおい。お前ってそんなに体力なかったっけか?」
「体力はあるけど、旅館に来てまで気を張りたくは無いよ。気にするべき視線なんて全くないしね」
「俺を数に入れろ」
「君には全てを見られたって構わないよ。例えばここで脱げと言われても、私は従おう」
「はッ? い、いや嘘……って待った待った! 待ったああああああ!」
そう言えば彼女はそういう奴だった。本当に脱ごうとしてきたので、慌てて俺はそれを止める。止めない方が幸せだったのは言うまでもないが、一時の快楽と引き換えに社会的立場を失いたくない。
「……冗談なのに」
「絶対冗談じゃないね。俺は分かる。長い付き合いだからな」
何度も何度も、俺に理性があってよかったと思う。何故かこういう発言には従順な碧花に、理性を無くした俺が合わさったらとんでもない事になる。それはもう、想像したいけど想像したくもない様な感じになる。
この複雑な感情、男子なら分かってくれる筈だ。俺の語彙力ではとてもとても正確な説明は出来そうもない。国語辞典を作った人とかなら、もしかしたら説明出来るだろうか。
「……所で、君は疲れてないのかい? それとも気を張ってるだけ?」
「あ、俺? 俺は……疲れたけど、多分お前程じゃない」
「ふーん。じゃあ私が先にお風呂入っちゃうけど、大丈夫?」
「え。温泉あるんじゃなかったけか」
「今は改装中みたいだよ。だから部屋毎のお風呂で入浴は済ませないと」
混浴とか一切抜きに温泉は疲れが取れるので、入れないのは少し残念だ。しかし部屋まで一直線に案内されたのに周りを良く見ている様で。流石は碧花と、褒めるべきかどうか。
―――しっかし。抜け出す暇がないなあ。
動機を作らなくてはならなかった手前、疲れていないなどと言ってしまったが冗談じゃない。俺は疲れている。それはもう絶対、碧花以上に疲れている。合理的に考えても、体力の絶対値で俺が下回っている以上、彼女の方が疲れているなんて事はあり得ない。だからもう一度言おう。
俺は疲れている。
疲れすぎてこのまま立っていると風呂にも入らず眠る恐れすらある。それだけは単純に不潔なので避けたいが、どうにもあそこの巫女さんが気になって仕方がない。
「なあ、風呂入らないのか?」
「もう少ししたら入るとも」
これ以上急かすと怪しまれる。彼女が勝手に動いてくれるのを待つしかない。どうしようも無くなって俺も座り込むと、名案とも呼んでも差し支えぬ策が、突如として思い浮かんだ。
……天啓という奴か。
忘れ物を探す際、どれだけ探しても見つからなかったのに、一旦落ち着いたらすぐに見つかってしまうのと同じくらい唐突だったが、この作戦は非常に無理がない。怪しまれる道理が無いし、俺もこの時間をゆっくり楽しめる。
「あんまり遅いと、俺が先に入るからなー」
「何だ、やっぱり君も疲れてるんじゃないか。見栄なんて張らなきゃいいのに。ここには誰も居ないよ」
「お前を数に入れろよ」
「私は君のどんな駄目な所を見たって幻滅したりしないよ。君のどんな面も私にとっては…………」
暫く、無言。哲学的な問いをされた訳でもないので、言葉に詰まる道理は無い。
「碧花?」
「やめた。君を調子づかせるからね。うん」
「は? 何を言うつもりだったんだよ」
「さ、入ってくれば? 旅はまだまだ始まったばかりだ。疲れを溜め続けたら、身体がもたないよ」
作戦は変更したので、今は疑われない為の努力が必要である。彼女に促される形で俺は風呂場へと向かった。
俺の知能が低いとされるのはこういう所だ。何故か俺は入浴前にあの巫女さんに会いに行こうとしていたが、それは大いなる間違いだ。美人に会いに行くのだから、身体を清めなければ失礼と言うものだろう。
という冗談はさておき、あの神社が空であるならば必然的に二十四時間開いている筈なので、別に就寝後だって構わないのだ、会いに行くのは。それを何故か俺は入浴前に済まそうとしていた。そんなのを狙ってたら怪しまれても無理は無いだろう。彼女も彼女で、あの巫女さんの事は気になっていたみたいだし。
じゃあわざわざ出し抜く事は無いだろうって? それはそうなのだが、俺はまだあの巫女さんの質問に答えていない。質問に答えないのは失礼だ。就活で複数採用を受けた際に採用辞退の連絡を入れないくらい失礼だ。
こんな例えは一年早いが、大事なのはそこじゃない。とにかく、俺一人で会いに行きたいのだ。
「……はあ」
湯船に肩まで浸かりながら、溜息を吐く。何かを嘆いているでも不安に思っているでもない。どちらかと言えば、この暖かさを心地よく感じての溜息だ。温泉でないのは残念だが、風呂も風呂で疲れはそれなりに取れる。いつも家で入っていた人間が言うのだから間違いない。
―――正直、湯船狭いな。
混浴を嫌がったのは、単に理性が保たない以外にも、彼女の裸を他の人に見せたくないというのが理由だ。彼女は俺の所有物などではないし、まして恋人でも無いのだが……旅の伴侶ではある。これを独占と呼ぶならそう呼んでくれても構わないが、とにかく他の人に見せたくなかったのだ。理性云々も絡めて、俺自身にも見せたくなかったと言ってもいい。
しかし部屋毎の湯船なら俺以外は誰も居ないので混浴をしても―――何を言っているんだ、俺は。理性が保たない件は何も解決していない処か、二人きりという部分で悪化している。
俺は一時的に顔を沈めて、また直ぐに持ち上がった。目を覚ました方が良い。彼女の発言の八割は俺をからかう為の嘘だ。二人きりでの混浴なんて、きっと断ってくる。スケベな妄想なんてするだけ無駄な筈だ。
「ああ。でも……まあ、いいか」
妄想するだけなら自由だ。極端な話、人を殺す想像をしようが世界を滅ぼす想像をしようが、誰かをレイプする想像をしようが、想像するだけなら何も問題にはならない。行動に起こす、言葉として発するからそれは問題なだけで、思う事は縛れない。
そのお陰で、今の所俺は『 』の事を考えずに済んでいる。風呂場とは俺にとって感傷的になる場所であり、『 』の事を除けば、その日の行動、言動を振り返って反省していた場所だ。忘却を目的とした旅において一番の山場とも言えるが―――本人には申し訳ないけども、彼女を対象とした妄想で乗り切らせてもらう。
大丈夫。俺は想像力が貧困な方だ。妄想出来たとしても、精々が青年誌程度。湯船を出るまでの数十分。どうか妄想させてほしい。
誰も死なない、誰も居なくならない、お前と一緒に過ごす―――幸せな未来という奴を。
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