大人のキスは恋の味

 俺にはしなければならない事がある。


 それはもう、色々ある。天奈に萌と由利の説明をしなければいけないし、写真はまだ集めきれていないし、野海とかあの女の子とか萌の父親とかの動向も把握しないといけない。端的に言えば時間が足りず、これら全てに満足いく結果を与える為には、もう五時間は必要だろう。



 だが、今だけはどうでもいい。



 どうでもよくは無いのだが、勢いに身を任せてやっちまったせいで、俺は恥ずかしくて仕方ないのだ。あの場は凌げたと言っても良いのかもしれないが、今後はどうしよう。あんな事をしておいて何だが、これから碧花と顔を合わせた時、どういう顔をして良いか分からない。


 俺が彼女にしたキスは、只のキスではない。


 言うなれば大人のキス。英語にしたらディープキス。本気度を示すには十分だったかもしれないが、何だか本来歩むべき段階を三歩程、飛び越えてしまった気がしてならない。やはり普通のキスに留めておくべきだっただろうか。


 家へと戻る足取りは、尋常でない程に重かった。



―――天奈には気付かれるよなあ。兄妹だもんなあ。



 この手の話に関して、俺は初心を極めている。天奈も同類だと信じたいが、同類だからこそ、俺の変化には直ぐに気付くだろう。どれだけ装った所で、長い付き合いの者の目は欺けない。


 ならばいっそ、開き直ってしまえと。そういう訳にもいかないのが難しい所だ。考えても見て欲しい。俺が開き直ったらどうなるか―――






『あ、お兄ちゃんお帰り。何話してたの?』


『ん~ディープキスしてた!』


『…………え?』


『いやあ参っちゃうよねえ外でさ。碧花も大胆ったらないぜアハハハハハ!』






 気でも狂ったとしか思われ無さそうだ。やめておこう。開き直る事を愚策とするならやはり隠し通すしかないが、それは最初に述べた様に不可能。唯一抜け穴があるとすれば、妹に追及させない事くらいか。追及さえさせなければ、『聞かれなかったから答えなかった』という逃げ道を作る事が出来る。


 碧花ももう少しタイミングを見て話しかけて来ればよかったのに。どうして妹の目の前で声を掛けてきたのか。恨むつもりはないが、時機の悪さには俺も苦笑いするしかない。


「あ、お兄ちゃんお帰り!」


「―――ぅおおおお!? な、なんだ天奈か。びっくりさせるなよ……」


「いや、別に隠れてないんですけど」


 妹にそう返され、俺もようやく気が付いた。色々と策を練っている内に自宅へ戻ってきてしまった様だ。言葉通り天奈は一ミリも隠れていない処か、玄関の前に立ったままである。


 千里の道も一歩から。足取りが重かろうと、進む限りはいつか終わりが来る。考え込み過ぎて一瞬の事の様に思えたが、空は先程よりもずっと暮れ泥んでいるし、かなりの時間が経ったと窺える。


「ね、ね。碧花さんとどんな―――」


「あー、そうだあ! 天奈、お前に言っておかなくちゃいけない事があったんだよお!」


「……何?」


「いやあ、部屋にさ……あれ。お前家に入ってないのか?」


 よく考えたら、おかしい。一度でも家に入っていれば、二人の存在に疑問を抱く筈である。二人がまだ俺の家に居る前提での話だが、あの負傷状態で何処へ行こうというのか。碧花と会いたくないなら、尚の事である。


「うん。入ろうと思ったのよ? でも、何か家の中に気配がしたから……」


「気配―――ああ、何だ。空き巣が入ってるとでも思ったのか?」


「そう! ああいう人達って、逃げ道を与えないと襲い掛かってくるって、ずっと前テレビで見たから、入る気になれなくて。お兄ちゃん、先入ってくれない?」


「俺は生贄かよ……ま、妹の為の生贄とあらば、俺は喜んで引き受けますがね。にしても空き巣ってのはあり得ねえけどな」


 強盗はともかく、空き巣という人種はとかく見つかる事とトロい動きが大嫌いだ。どんなに甘く見積もっても十分以内に金目の物を見つけ出せなきゃ退散する。そういう奴等だ。俺は家の中にある気配の正体を知っているが、それを抜きにしても空き巣かもしれないという危惧は、少々愚かに思えた。


 ずっと前に見たらしいから、うろ覚えなのだろう。


「心配しなくても、その気配ってのは俺の友人のものだよ。警戒の必要なんかねえ」


「……お兄ちゃん。私が居ないからって女の人家に連れ込んでるのッ?」


「いや、友人としか言ってねえだろ! 男かもしれないだろ!」


 萌も由利も女だけど。今の発言はまるで俺が誑しみたいに扱われそうだったので、つい反論してしまった。その内容は疑いの余地もなく正論なのだが、天奈は素早く切り返してきた。


「だってお兄ちゃん、男の人と全然仲良くなれないじゃない!」


「なッ……! そ、そんな事ねえよ! クオン部長とか西園寺部長とか、一杯居るし! 大体だな、友達って言うのは基本的に同性が多いものなんだぞ?」


「じゃあ聞くけど、今まで一度だってお兄ちゃん、男の人連れてきた?」



 …………言い返せない。



 『首狩り族』のせいで碧花以外誰も関わろうとしてくれなかった事もあるし、碧花と唯一親しい間柄だったせいもあるだろう。男友達なんて出来た覚えがない。信憑性がいよいよ増してくるまでは、話し相手くらいは居たのだが、それも友達と言える程の仲では無かった。


「そ、それはだな。碧花もそうだが、お前が居ない時に呼んでた事があるんだよ!」


「嘘。碧花さんからちゃんと聞いてるんだから」


「は? もしかしてお前の言葉、全部アイツ情報?」


「そうだけど」


 端から勝ち目なんて無かった事を悟り、俺はがっくりと肩を落とした。無駄に嘘を吐いてしまった。最初からそれを言ってくれれば、何もかも白状したんだ。俺は。小学校から中学校に至るまで、俺の生活の殆どに碧花は関わっている。どれだけ上手い嘘を吐こうが、彼女だけは騙せない。


「……いつの間にか話が逸れたな。お前の言う通り、確かに女の子だけど、いかがわしい事しようってんじゃない。そこにはちゃんとした理由があるんだ」


「女の人連れ込むなんて、いかがわしい理由しか無さそうだけど」


「多分言い方が悪いな。連れ込むなんて人聞きが悪すぎる」


 二人は勝手に来たのであり、俺はそんな二人の要求に応じて匿っただけ。決して、俺は連れ込んだりなんかしていない。そんな奴はディープキスで恥ずかしがったりしない。


「ただいまー」


 腹の底から声を出して、家中に響かせる。二人がまだ滞在しているならば間違いなく聞こえたであろう。由利はともかくとして、萌くらいは出迎えに来てくれるかもしれない。今朝のやり取りを根拠にそう思ったが、萌は夫婦というものに興味を持っている。でなきゃ、俺に『行ってらっしゃい!』とは言わない。


「お帰りなさーい!」


 想定通り、リビングの方から萌がひょこっと顔を出してきた。俺の顔を確認するや、彼女は子犬みたいに駆け寄って、俺にすり寄ってきた。


「せんぱーい! 待ってましたよ~。御影先輩は寝ちゃうし、退屈してたんですー!」


「お、おう。そりゃ良かったな。だけど待て、ちょっと待て。お前怪我は大丈夫なのか?」


「お蔭様で、もうすっかり良くなりました! 御影先輩はまだまだですけど、普通に動くだけなら問題ないそうですッ」


「……そうか」


 それが空元気や強がりでない事を願うばかりだ。萌はともかく、由利はどう考えても病院に行くべき怪我を負っていた。病院へ行かずに済むのならそれに越した事はないのはあらゆる場合において当然だが、念の為、やはり通院するべきでは無いだろうかと俺は思っている。


 聞く耳は持ってくれなさそうというか、まず持たない。オカルト部はズレている。


「あ、先輩」


「ん?」


「ご飯にします、お風呂にします? それとも―――」


「ストップ萌。その先を言うと話がややこしくなる。今は一旦離れろ」


 碧花に比べると、萌は本当に従順だ。言われた通り直ぐに離れると、その場で背筋を伸ばし、俺に敬礼してきた。


「第一師団、到着しました!」


「軍隊かよ!」


 しかも師団(一名)とは度し難い。それは団とは言わないだろうに。しかしこんなボケまでかましてくるという事は、萌の方はもう大丈夫そうだ。


「あ―――萌さんッ!」


「―――天奈ちゃんッ。久しぶりですね! ちょっと見ない内に大きくなりましたか?」


「うちの妹は植物じゃねえんだわ、萌」


 まだあのパーティから半年も経過していない。その間に身長が伸びるって、一体どんな早熟型だ。年齢的にも毎日伸びているのは分かるが、それにしたって目に見える程伸びていたら、異常であろう。


「まあ水あげて成長するってんなら、天奈も本望だろうがな」


「……?」


 萌が首を傾げたのを見て、俺は前方で両手を振った。


「いや、忘れてくれ。こっちの話だよ」


 オカルト部の面々をパーティの内に妹と会わせたのは正解だった様だ。お蔭で話が逸れて、妹は俺に追及してこなかった。後はこのまま由利にも引き合わせて追及を逸らし続けるだけだ。




「あ、お兄ちゃん。そう言えば碧花さんと何話してたの?」


「……え。先輩。何か話したんですかッ?」


「うん。さっき家に入ろうとした所でね、碧花さんが―――」





 うわー最悪。


 妹に悪気が無いのは知っているが、何でよりにもよって、このタイミングで追及するかなあ。




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