異形に恐るる



 ―――あの女、マジで覚えとけよ。



 美原と分かれて、私はこじんまりとした病院を訪れていた。何か危ないモノと遭遇したら―――彼女の事だ。直ぐに連絡してくるとは思うのだが……急にこうやって分散されると、私の方が不安になってくる。


 何かに襲われていないか。


 もう手遅れになって居るんじゃないか。


 そんな考えが脳裏を過る度に、電話を掛けてしまいたくなる。しかし掛けてしまいたくなっても、電波は届かない。なので安否を確認するには、今からでも踵を返し肉眼で彼女の事を確認しなければならない。


 あの女が襲われるならそれはそれで……いや、駄目だ。あの女がもしも死んでしまったら、私達は帰る手段を知らないまま、ここに閉じ込められてしまう。



『一応言っておくけど、もし変なのに出会ったら逃げる事をおススメする。まともな手段じゃ怯ませる事も出来ないからね。仮に私がここでマシンガンをお前達に配ったとしても、それをお前達が十全に使いこなせるとしても、為す術なく死ぬ事になるだろう』



『じゃあ二人共。精々死なない様に頑張ってくれ』



 気にしすぎだとは思うのだが、まるで自分が死なないかの様な言い方ではないだろうか。もしかしてあの女には対抗手段があると……いや、何かを持っている風には見えなかった。やはり私の気のせいか? しかしそれにしては、あの去り際に見せた笑みが……何かを企んでいるのではと思えてならない。


「おい! 居るなら出てこいよ! さっさと出てこねえと置いてくぞ! ていうかぶっ飛ばすぞ!」


 誰も反応しない。


 何も反応しない。


 返ってくるのは返事ではなく自分の叫び声であり、それを聞いた所で一体何の意味があるというのか。あのうざったい男がここまでされて何も反応しないという事は考えづらく、つまりここにあの男は居ないのだ。


「居ねえんだな!」


 一応、あの女には『何処に居るか分からないからくまなく探せ』とは言われているが、まあいいだろ。反応しないなら居ない。見なくても分かる。探す意味がない。


 半ば己の理屈を正当化し、私は病院の入り口に手を掛けた。


「…………ん?」


 開かない。


 古い扉だから回りが悪いだけだろうと思い何度も回す。しかし、開かない。試している内に分かったが、これは扉が歪んでいるとかそういう問題ではなく、外側から強引に抑え付けられているらしい事が感覚で分かった。


 なら私のやる事は一つだ、と。


「おらッ!」


 蹴っ飛ばす。これだけ古い扉なら開くだろう。漫画やアニメではよく開いている。ドラマでもたまに見る光景だ。それが現実で出来ないなんて―――そんな道理は!



 扉が開く事を信じておよそ三分間蹴り続けたが、開くどころか、むしろ扉が歪んで余計に開かなくなった気さえしてきた。



「はあ…………何だよこの扉、硬すぎだろ……」



 硝子ならとっくの昔に割れている頃だ。何故かこの病院、二階の方にしか硝子が無いので、この扉を突破しなければ一生閉じ込められたままだ。ワンチャン、二階から飛び降りると言う手もあるが……私は受け身のプロじゃない。捻挫は免れないだろう。



 ―――先に進むしか、無いのか。



 外に出られなくなったと分かったら、猶更美原の事が心配になってきた。これはもう、どうにかして脱出手段を見つけて、一刻も早く合流しないといけなくなった。


 私は病院の内部に目を向けて、何の音も気配もしない二階の方を見遣る。どうせ収穫も何もないのに……行かなければならないのか。面倒くさがる一方で、しかし私は恐怖していた。




 変なの―――正体不明の怪物に。




 暴力が通用する内はまだ良い。言葉が通用するなら何も怖くない。しかし言葉も暴力も通用しない存在に……私は、どうすればいいのだ。せめて美原さえ居てくれれば、少しは安心して進めるのに。いやしかし、我儘を言っている場合ではない事は承知している。進もう。


 心の奥底で覚悟の楔を打った筈なのに、足取りは異様に重かった。やはり気が進まない。あの女も美原も居ない今だからこそ漏らせるが、私は彼女という保護対象を得て、初めて強くなれる。守らなければならないと言う使命感が、私の中の恐怖を打ち消してくれる。


 本来、私という人間はとてもひ弱なのだ。私があの女を嫌っている理由の一つもそこに起因する。


 憧れから来る嫉妬とでも言おうか、あれだけの強さ(これは物理的強さという意味では無い)を持っておきながら、どうしてあんな男に執着するのかが分からない。


 分からないから腹が立つ。理解出来ないから消してしまいたくなる。



 しかしこのまほろば駅に居るのは、得体の知れない、消す事が出来ない何かが居るらしいではないか。



 消してしまいたいものを消せない。それは私にとって何よりのストレスだ。そのストレスを、私は親友である美原の傍に居る事で釣り合いを取っていたのだが、その均衡が崩れた今、私を守るモノは何もない。


 階段の手前に差し掛かった所で、私は足を止める。二階に向かう怪談は前左右に二つ。二つとも終着点は二階のど真ん中であり、どちらを通っても特別な変化は無さそうに思うが、奥に進む事に気が進まない私は、『どちらを通った方が良いか』という問いを勝手に作り、足を止めていた。


「………………」


 何かが起きる事を期待する。物音でも、足音でも、声でも、携帯の音でも。何かあると分かれば、少なくともその事実だけは既知になる。せめてそれくらいは待っても良いだろうと、三十分が経過する。それ以降も、恐怖に身が竦む私をあざ笑うように何も起きない。


 遅い?


 早く動け?


 立ち向かえ?


 自分で動けもしない癖に呑気な事ばっかり言って。早く動けなんて、そんなの私が一番思ってる。立ち向かうのは論外だ。主人公じゃあるまいし、馬鹿みたいだ。あの女だって逃走をすすめていた。どうして立ち向かう必要がある。立ち向かってあの男が戻ってくるのか?


「……私が見つけたら、一発ぐらいぶん殴ったって、バレないよな」


 もし尋ねられたら元々こんな状態だったと言えばいい。疑う奴はまずいないし、あの女もアイツが無事ならそれでいい筈だ。



 ―――よし決めた。ぶん殴る。



 こんな訳の分からないものだらけの世界に私と美原を巻き込んだ最低限の責任を取ってもらうだけだ。大義名分を得た私は強い。階段手前で立ち止まっていた事実を忘れ、足取り軽く、意気揚々と私は階段を上った。要は気の持ちようだ。あの男を殴る事のみを考えれば、自然と探索は細かくなるし、分からないものも気にならなくなる。


 階段を上り切り、二階の部屋に足を踏み入れた時、その強すぎる刺激臭が、私の鼻を刺激した。



 ―――何だ、この臭い。



 獣の臭いと魚の臭いが交じったみたいな……徹底した不快感。純粋な臭さは大した事が無いのかもしれないが、とにかくこの臭いは、人という生き物をとことん不愉快にする。叶う事ならば、今すぐにでも消臭スプレーを自分の身体に掛けて、この酷い臭いとおさらばしたい。


 そんな臭いの中心に、それは立っていた。


 箪笥の方を向いていても、その首が只ならぬへし折れ方をしているのは素人目にも分かった。加えて首には輪っかが掛けられた状態で縄が放り出されており、まるで首吊りの縄をそのまま引っ張って見ているみたいだ。


 暫く眺めていると、突然『それ』の皮膚が内側から膨張。皮を突き破って出てきたのは、紐みたいにひょろ長い白色の幼虫。


「う…………!」


 声を上げそうになったが、一匹だけだったので、まだ耐えられた。あの手の生物が一匹だけという事はまずないので、まだ体の内側に何匹も居ると思うと、ゾッとする。あれは何だ。ミミズにカブトムシの幼虫の色を足したみたいな……純粋に気持ち悪い。見るからにぶよぶよしていそうだし、何よりその足音が不愉快だ。


 例えるなら、耳元で蚊が飛んでいる様な音。あれに近い。相違点があるとすれば、絶対的に蚊では無いのと、不愉快なのは耳ではなく、頭の内側だという点。そうだ、あの虫の足音は、自分の内側に入り込んでいるのかと錯覚させんばかりの足音なのだ―――


 何故か箪笥の方を見続けるのを好機と捉え、『それ』を理解するべく観察を続けていると、不意に首が一八〇度に曲がり、『それ』は私の方を見て、ニヤリと笑った。


「あ……やばッ!」


 脊髄反射で後ろに下がるも、僅か数歩で手すりに到達。暫し意味のない後退をする中で、私はとある事に気付いてしまった。


 怪物の両目が複眼っぽくなっていたのには集合体恐怖症でなくても寒気を感じたが、それは複眼では無かった。体の内側に居る細長い虫が、眼球をハチの巣状に穴をあけて、そこから顔を出しているに過ぎなかったのだ。先程ニヤリと笑った口も、歯の代わりに見えたのは、上唇から下唇にかけて繋がっている虫の数々。





 どう見ても死んでいる何かが動いているのではない。これは―――巣だ。死体を巣にしたあの虫が、死体を動かしているのだ!





「うわああああああああああ!」


 段差が何処にあるのかも確認せず、私は一気に背を向けた。その結果として段差の最後で着地を誤り、倒れ込んでしまう者の―――直ぐに立ち上がり、玄関のノブを回す。



 開かない―――いや、そうだ。開かないんだ! 



 先程散々確認したのに、どうして忘れていた! 殴って蹴ってを繰り返しても扉は開かないし、これも先程試した方法だと今気づいた。背後を見ると、死体が滅茶苦茶にへし折れた五指を伸ばしながら、左側の階段を降りて来ていた。


 今なら間に合うかもしれない。


 今度ばかりは躊躇していられない。あの死体みたいに、虫の巣にされるのだけは嫌だ。最後に玄関が開かない事を手で確認してから、振り返りもせず、右側の階段へ一気にダッシュ。死体の動きは滅茶苦茶に遅いので、私の足でも十分間に合った。勢い殺さず二階へ駆け込み、首だけで背後を振り返ると、


「えッ? なん―――!」












 首の内側から飛び出してきた虫が、丁度私の左目めがけて、飛び込んできた。 

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