世界の癌
洗っても、洗っても。消えなかった。落ちなかった。
「もう…………何なんだよ」
もしかして、病気に罹ってしまったのだろうか。どれだけ洗っても耳まで及んだ紅潮が冷めなかった。意識を少しでも緩めると涙が出てしまいそうだ。たとえどんな状況でも、もう私は泣いたりしないと勝手に決意した。
それなのに…………
「ふふふ。ふふふ。ふふふ。フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ」
最高だ。彼に所有される気分は、こんなにも心地よかったのか。
彼は守ってくれると言った。それは即ち、私が彼の所有物となったという事だ。ああ、ようやく少しだけ叶った。彼に所有された。彼のモノになれた。
不気味な笑いが宵闇の空に木霊する。せなかの辺りを這いずり回る冷たさは、季節特有の気温に震えている訳ではない。自分というものが次第に『彼』へ染まっていく実感だ。それは毒の様に、或は日落ちと共に自らの身体を蝕む影の様に。ゆっくりゆっくりと私の身体を食い荒らしていく。乱暴に、容赦なく。私の意思とは無関係に。
それが最高に、心地よい。
「………~♪」
いつ以来だろう。この高揚感は。いつ以来だろう、この満足感は。
いつ以来だろう、スキップをして家に帰るなんて。
もっと奪われたい。もっと所有されたい。彼に全てを貪られたい。彼に全てを捧げたい。けれど今は駄目だ。もう少し、もう少しでそれが出来る様になる。きっと、その筈だ。私は、私の罪は。後少しで消え去る。何の悔恨も無く、彼に全てを捧げられる。
あまりにも気分が良いが、その分他人には見せられない顔になってしまっている。口元の緩みが止まらない。
駄目だ、こんな顔を見られようものなら私のイメージが崩れる。帰路は本来そこまで複雑じゃないんだけど、たまには別の道で帰らないと、これは収まりがつかない。空き地の方に足を運んで、取り敢えず口の緩みが終わるのを待つ事にした。明らかに不法侵入だけど、法なんて気にしてたら私はとっくに狩也君を失っていた。今更な話だ。
法なんて所詮はある一定以上の平和を保障するものでしかない。真なる危機を前に法なんて無力だ。本当に大切な者を守りたいなら、自分の力で何とかするしかない。私の場合、それが初恋……狩也君だった。私にとっての世界の『色』。それが首藤狩也という人間。色が無い絵はつまらない。それは白紙でしかない。
狩也君の居ない世界は、私にとっては白紙も同じ。全く以て要らないモノ。だから私は『色』を守る為に―――
「動くな」
私の背後にいつの間にか立っていたそいつは、一定以上の距離を保ったまま、私にそう告げてきた。
「…………法律って知ってるかい? 駄目だよ。この国にそんなもの持ち込んじゃ」
「安心しろ。撃つ気はない。お前と交渉したかっただけだ」
「交渉……ふーん。いよいよ直接動いてきたって訳か。またどうして」
「俺はもうすぐ卒業だ。お前からもう部員を守れない。だからこうして、わざわざ交渉しに来た」
会話を続けてみたけれど、これは奪えそうもない距離だ。近くには遮蔽物もない。彼がどれだけ使いこなせるかは分からないけれど、わざわざ持ってきたって事は、命中させる自信があるという事。
私は大きくため息を吐いて、背後の人を憎悪した。せっかく幸せな気持ちに浸っていたのに、全部ぶち壊してくれたのだ。どんな内容の交渉だったとしても、今の所呑む気は全くなかった。
「一応話は聞くよ。何?」
「これ以上、首藤狩也に近づくな」
……………………………………………………………………………………………は?
「どんなつもりで言ってるか知らないけど、呑むと思ってるの?」
「思っているからここに来た。もしお前がこれ以上近づくようなら、お前の秘密を全てアイツにぶちまける」
「…………面白い脅迫だ。でも抑止力は、持っているからこそ効果を発揮する。そんな事をすれば、私だって条件を呑んで遵守する理由が無くなる」
「そうかもしれない。だがお前の恋をぶち壊せる。お前さえ居なくなれば、全員幸せに終わるんだ。狩也君も、萌も、由利も。二人が殺される事は止められないかもしれないが、殺せばお前の恋はそこで終わりだ。彼の事が本当に好きなら、お前は条件を呑むしかない」
どうやら、試されているらしい。私が恋に恋する頭のおめでたい女なのか、それとも彼の幸せを第一に願う女なのか。私が恋に恋しているなら、こんな条件は呑まなくてもいい。恋さえすればそれで代用が利く。
だが悲しい事に、私は彼の幸せを第一に願っている。つまり彼の幸せを願うのなら、背後で有利に立った気分で居る男の条件を呑むしかない…………普通なら。
「―――取り敢えず、一つ言いたい事がある。よくも狩也君に『虚落とし』を仕掛けてくれたね。君達の部長の顔を立てて、文句はこれ以上言わないけれどさ―――」
私は躊躇なく振り返り、その狐面を見つめた。その手には警察官が携帯している様な小さな銃が握られており、彼の性分を考えると、強奪したのかな。これで大義名分が出来上がったから、丁度いいと言えば丁度いいけど。どの道、二人きりになれば自ずと殺し合う。
特に今回は、狩也君が引き合いに出されているから。
「お前……覚えているのか」
「覚えているというより、お前達の部長が覚え方を教えてくれた。いやはや、彼の事は私も尊敬しているよ。私の価値観を理解してくれる数少ない人物だ。あんな空間で正気を保ってきただけの事はある。やはり異常は、異常なモノしか理解出来ないんだね」
自分が常軌を逸しているという自覚はある。だからこそ、一人で抱え込んできた。ストレスでも何でもない、私しかそれが出来ない。狩也君を助ける事が出来るのは私だけ、狩也君が頼れるのは私だけ。
だって、『トモダチ』だから。
貫き通すつもりしかないけれど、こんな価値観が理解されない事くらい、私でも分かっている。だからあの時、私の発言を理解してくれた彼の事は、嫌いにはなれない。数少ない尊敬している人物と言っても良い。
「…………ひょっとして、彼もそうだったのかな。私と同じ価値観を、心の中で抱いていたのかな」
「何だと?」
「私は欲深い女性なんだよ。どうやらお前は、幸せを願うなら身を引けと、どうやらそう言いたいみたいだけど――――――」
私は制服のリボンを緩めて、上空に放り投げた。
「私は好きな人を自分の手で幸せにしたいんだ」
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