純情で歪んだ愛

 耳栓を外したら、いつもの天奈だ。俺の声はきちんと届くし、精神にも傷は負っていないし、何かに憑りつかれている訳でもない。俺の可愛い妹そのまんまだ。何処にも、何にも変化がない。


「天奈!」


 改めて、俺は妹に抱き付いた。気持ち悪いと罵りたければ、幾らでも罵れ。俺は妹が大好きで、そんな妹が傷一つなく元気である事が、どうしようもなく嬉しいのだ。このまま号泣するまであり得るが、俺は泣き顔を碧花以外に見せたくはない。正確には彼女にも見せたくないが、どうせ見透かしてくるので、隠すだけ無意味だ。


「お、お兄ちゃん……?」


「……碧花に、何もされなかったか?」


「え、え? えっと……怒られた」


「怒られた?」


「お兄ちゃんに、ほら。あれ教えたじゃん。でお兄ちゃん、あれ本人に聞いたじゃん」


「おう。じゃんじゃんうっせえな。どこぞの傀儡使いかお前は」


「その事をね、怒られたの。何で教えちゃうのって、顔真っ赤にして」


 無視された。分かりにくい突っ込みだったか。


「あー……あ? ちょっと待て。何でお前、俺が聞いた事知ってんだよ!」


「お兄ちゃんが聞いたからでしょッ! 碧花さんがそう言ってたんだから!」


「あ、そういう事か。悪い。何か勘違いしてたわ」


 しかし顔を真っ赤にした碧花か。見た事が無い訳ではないが、飽きる程見た覚えも無いので、見てみたかった。普段鉄面皮な彼女が女の子らしく表情を変えるなんて滅多にないのだ。そういう表情は見るだけ得であろう。


「後は、何かされたか?」


「―――特に。何でそんな事聞くの?」


「いやあ、別に。ちょっと色々あってな。本当に、何も無かったんだな?」


 妹を疑っている訳ではないが、何故か俺は念入りだった。その念入り具合は無駄に妹を不安にさせるだけだと思われたが、ここまで来て急に天奈の反応が怪しくなった。具体的に言うと、ある一点を過剰に気にし始めた。


「……ベッドの下に何かあるのか?」


 どんな馬鹿でもここまで露骨だと指摘出来る。隠していたつもりだったのか、天奈は俺の何気ない指摘に怯んだ。


「え、な、何でもない! 何でもないから!」


「何かあるんだなッ!」


「やめて! お兄ちゃん見ない方が良いから! 絶対見ない方が良いから! 泣くから!」


「はあ? 何で泣くんだよ」


 妹にも腕力で負けている以上、兄貴は立ち止まって話を聞くしか無かった。どんだけ情けない兄貴だよ。ここで強引な手段が取れないなんて。


「お兄ちゃん、昔、一度だけさ。私の部屋に入って、あれ、見たでしょ」


「…………アレ?」


 すっとぼけている『アレ?』ではない。天奈の指しているエピソードが良く分からないという意味で『アレ』だ。如何せん、妹とは仲の悪い時期があったので……『アレ』とだけ言われても、絞り込めない。


 馬鹿みたいに口を開けて考え込む俺を、天奈は信じられない様な目で睨み、俺の胸倉を掴んだ。


「何で忘れてんのッ? 信じられない! やっぱりお兄ちゃん反省してないじゃん!」


「いやいやいやいやいや! 反省してるってば! 待て、お兄ちゃんの話を聞け! 反省の心当たりが多すぎて分からないんだよ!」


「多すぎてって、普段何してんの!?」


「全部不運だ!」


 喧嘩……というには、幼稚すぎる気もする。しかもどっちにも非が無い。ならば喧嘩とは言わない。これは…………久しぶりに会った兄弟が久闊を叙しているのだ。多分。


「お兄ちゃん、見たじゃない」


「だから何を」


「私が小学校の頃好きだった人への想いを綴った…………ポエム」


「―――あ」


 今からすれば本人にとっても黒歴史らしく、天奈はその場で舌を噛み切って自害してしまいそうな程、俯いてあちこちに目を泳がせていた。思うのと口にするとでは随分勝手が違う。口にして、黒歴史を再認識したくなかったから、天奈はわざわざボカしたのだろう。


 そのボカしを取ってくれたお蔭で、俺も遂に思い出した。天奈のベッドの下にあったポエムの事を。当時の俺は兄として最低であり、彼女が帰ってくるまでそのポエムを音読し、転げ回って笑っていた…………あああああああああ!


 猛烈に死にたくなってきた。俺は何と言う外道だったのだろうか。


「ごめんごめんごめんごめんごめんごめん! 許してくれ許してくれ赦してくれ赦してくれ!」


「……許さない」


「天奈ああああああああああああ!」


「今はその話はいいの。後、泣くってお兄ちゃんの話じゃない。碧花さんの事……だから」


「碧花ぁッ?」


 俺は脳裏で彼女が泣き喚く姿を想像して―――大笑いした。


「アッハハハハハ! あり得ねえあり得ねえ! アイツが大泣きとかあり得ねえって。柄じゃないし、そういう性格じゃないし! いやいやいやいや、あり得ないよあり得ないあり得ない!」


「笑い事じゃないの! お兄ちゃんにこれ見られたって分かったら、碧花さん絶対泣いちゃうから! 私分かるもん!」


「根拠はッ?」


「私が泣いたから!」


「ぐうッ…………!」


 そこを突かれると弱い。妹の言う通り、確かに俺はあの一件で泣かせてしまった。俺自身に悪意が無かっただけに、あの一件は本当に後悔……いや、これ以上はやめておこう。なら何故忘れていたのかと、咎められてしまう。


 というか自分が泣いた件を根拠にするのは良いが、そこまで自信満々に言ってしまっても良い思い出なのかどうか。


「お兄ちゃんが本当に反省してるって言うなら、この下、見ちゃ駄目。もし見たら、私お兄ちゃんと絶交するから」


「え、そこまでですか?」


「そこまでする義理があるの! 碧花さんには色々お世話になったから……だから、お兄ちゃんはこのベッドの下を見ちゃ駄目!」


 そこまで禁じられると逆に見てみたくなるのが人間の良くない性質だが、これ以上妹に嫌われると生きる意味を無くしてしまいそうで怖かったので、俺は抵抗する事を諦めた。


 碧花もいつか言っていたが、何事も詳らかにするのはナンセンスなのだと。つまりはそう考え直し、俺は欲求を打ち消した。


 滅茶苦茶気になる。


「所で、何しに来たの?」


「今更かよ……俺がお前の所に来たって事は、用件は一つだろ?」


「……碧花さんと結婚した事を報告しに来た?」


「いや、まだ結婚出来ねえし。でも結婚出来たら良いよな。アイツお嫁さんに出来たら毎日が幸せだと思うよ、俺は。ちげえよ、お前関連だ」


「え、まさか私に?」


 勝手に勘違いして勝手に引かれるなんて理不尽な話があってたまるか。食い気味に俺は反論した。


「近親相姦ダメゼッタイ! お前は可愛いけどな、異性として見た事は一回もねえよ! お兄ちゃんを何だと思っとるんですかチミは! 反省しなさい!」


「…………えっと。え。退学になっちゃった?」


「だったらこんな愉快なノリに付き合ってないでさっさと本題切り出してるわ。あれ、天奈さん? 何か察し悪くないですか? お兄ちゃんビックリですよ?」


 何がビックリって、そりゃ迎えに来たという発想以前にやれ近親相姦や、やれ結婚の報告やら、むしろ一般人には発想出来ない事ばかり言ってきた事だ。接し方を忘れているせいだと信じたいが、天奈ってこんな妹だったっけか。


「察しが悪いのはお兄ちゃんの方だと思うんだけど……ごめん。ギブアップ」


「まあ、認めよう。今のお前だと一生発想出来なさそうだ。記者とか警察とかも一向に現れないし、そろそろ家にお前を連れて帰ろうかなって事で、迎えに来たんだよ。分かったか?」


「あ、そっち。それじゃ正解出来る訳ないじゃん」


「いや、普通出来るだろ。兄妹だぞ?」


「兄弟でも出来る事と出来ない事くらいあるに決まってるでしょ。お兄ちゃんのテンションも何かおかしいし。私まで調子狂っちゃってるのよ」


「それは……俺が接し方忘れてるせいだ。ごめん。まあともかく、迎えに来たんだ。帰らない、とは言わないよな?」


「当ったり前! 何処に居ても、一番落ち着くのはお兄ちゃんと一緒の家だしね!」


 照れくさそうに、それでも憶する事なくそう言ってのけた天奈を見ていたら、ちょっと接し方を思い出してきた気がする。ああそうだ。俺が求めていた日常は、俺が今まで味わってきた平穏は、つまりこういうものだったのだ。


 怪異も事件も死体も関係ない。妹の笑顔がそこにあれば―――兄貴として、これ以上の平穏はあるまい。


「久しぶりに手繫ごうぜ」


「うん!」


 兄弟仲良く手を繫ぎながら、俺は碧花の家を後にした。いつの間にか、俺の脳裏から先程の少女への恐怖は消え去っていた。存在すら、朧気な記憶を残すのみとなってしまった。それが後々に負債として返って来ようが来なかろうがどうだっていい。





 今は、妹と帰宅するだけの、この何でもない時間を楽しみたかった。




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