私だけのイレギュラー

「……ねえ!」


 私を背負う人に声をかける。その人は声に答えてはくれず、無言で家から家を駆け抜けていた。


「もう誰も来てないよ?」


「…………」


「神乃!」


 その名前を呼ぶと同時に、その人の動きが止まった。


「やっぱり神乃……なの?」


 怪物に襲われそうになった私を助けてくれたこの人は、御影さんの事など眼中にないかの如く私を連れ去り、ここまでノンストップで走ってきた。そのお陰で碧花さんの追跡も化け物の追跡も撒いて、今に至る。


 忘れてはならないのが、そういう負担は全て御影さんの方に行ってしまった事だ。まるで、生け贄に捧げたみたいに。


「…………ああ」


 本当に彼女だとするなら良かったと安堵したいが、そうもいかない。雑に下ろされた事で尻餅をつきつつ、私は心配そうに彼女の表情を窺った。


「神乃……どうしてそうなっちゃったの?」


 親友の筈の彼女を見抜けなかった理由は見た目にある。神乃の身体は半分だけ怪物になっていたのだ。


 腕の表面から無造作に突き出る五指、汗の代わりに出てくるミミズみたいな生物、涙袋からちょろりちょろりと姿を現わす蛆虫、髪の共食いなど。


 状況が状況だったから仕方ないけれど、私もよくこんな状態の神乃に連れられたと思う。出来れば手を握っていたかったけれど、あんまりにも気持ち悪くて、私は少しだけ距離を離した。


 視覚的嫌悪には勝てない。


「そうなったってのは……どういう意味だ?」


「え。見たままなんだけど……もしかして、見えてないの?」


「見えるも何も、私はお前と同じ状態だぞ」


「そ、そんな訳ないでしょ! 鏡を……あーえー鏡…………あった!」


 倒れていた鏡を起こしたが、それと同時に辛うじて繋がっていたらしい破片がパラパラと落下。私が完全に起こす時には、鏡の役割を果たせそうなものは何も残っていなかった。


「……と、とにかく。神乃ったら、おかしいよ! 体の一部分がおかしくなってる!」


「お前もだ」


「え?」


 恐ろしくなって思わず自分の体に視線を落とす。が、相変わらずだ。ここに来る前と何も変わっていない。


「ど、何処が?」


「……私の仮説だが、もしかしてお互いに自分の変化は気づいてないんじゃないか。まあ私は……流石に、自覚はあるけど」


「自覚?」


「頭がおかしくなってくるん……だ。感情が弄くり回されて、価値観が歪められて。お前が居てくれたから、今は何とかなってる……でも、限界が近い」


「……ねえ。もしかしてここに残る気じゃないよね?」


「お前に迷惑をかけるくらいなら、残った方がマシだ。悪いが」


「そんな事ないよ!」


 人の話を遮るのは好きじゃないけど、我慢出来なかった。私が何の為に碧花さんと対話したかと言われれば、それは私達の為。


「私達は友達でしょ! 絶対見捨てないから! 悪いって思うんだったら何が何でも脱出しようよッ。神乃が居なきゃ私は……生きていけないんだから!」


 生き甲斐。文字通りそう捉えてもらっても構わない。彼女がいるから私は『水鏡美原』を保てる。当主という名の空っぽな傀儡じゃなくて、人として生きられる。


 生き甲斐とは、生きる値打ち、生きていく理由に他ならない。ならば神乃こそ、私の生き甲斐だ。自由になりたいのも、彼女がいてこその願いだ。


「……大袈裟なんだよ、私が居なくても生きていけるだろ、お前は。そもそも、お金持ちだしな」


「あれは家のお金だし……当主から逃げた私が使えるお金なんて、精々数万程度だよ……」


 論点のズレつつある説得に、神乃はいつにない優しい顔で、私の頭を撫でた。


 怪物になっていない方の、正常な腕で。


「……はは。お前がそこまで言ってくれるなら、分かった。一緒に逃げよう。あいつらを置き去りにして」


「神乃……!」


「でも……限界が近いのは本当だ。もし、私がお前の事も認識出来なくなる……くらい手遅れになったら、その時は置いていけ」


「……分かった」


 私はサラリと嘘をついた。彼女を置いていくつもりは毛頭ない。完全に正気を失っても、脱出すれば元に戻る筈だと思っている。


 だからもし正気を失ったらその時は私を餌に無理やり一緒に脱出する。誰を犠牲にしたとしても、せめて私達は助かりたいのだ。


「それで……脱出のプランはあるのか」


「今の所ないけど―――」





「そんなプランも望みも一切生まれる事はないよ」





 二人の和やかな雰囲気を一刀の下に斬り伏せたのは、碧花さんだった。ここで敢えてらしくも無い言い回しをしたのは、実際に障子を斬り、病葉みたいに吹っ飛ばしてきたからだ。


「碧花さん……どうしてッ!」


 こんな言い方は何だが、碧花さんは大層御影さんにヘイトを溜めていた。私が知らない、絶対に知る事が出来なかった真実を知る彼女を生かしておく訳がない。真っ先に狙うとすればあちらだと……思っていたのに。


「私もそのつもりだったが、まさか神乃にこの『素晴らしい場所』を拒む気力があるとは思わなかった。狩也君にあの戯言を吹き込まれたくないのはその通りだが、それよりもまず、彼を人間に戻さないと。その為には……神乃。お前の命が必要だ」


 碧花さんが血に染まった刀を神乃に向ける。あの服装で良くもあれだけ動ける。彼女の服は決して運動向きの格好では無い。元々こんな事をするつもりが無かったと言われれば、大分納得してしまう。


 それでも私達に易々と追いついている辺り、彼女の身体能力の高さが窺える。或いは地理的に知り尽くしていて、近道を通ったのかもしれない。


「まあ、別にお前でも構わないよ、美原。誰か一人狩也君の為に死んでくれ。そうすれば金輪際、近寄らない」


「そ、それこそ御影さんを狙えば良いじゃないですかッ! どうして私達なんですかッ?」


「あの女は個人的な問題だ。一方お前達は元々そういう予定だった。諦めろ。お前達二人が生き残る道なんて、無い。このまほろばを出ようとする限りは」


 王さん曰く、碧花さんは怪異を普通に殺せるだけ(と言っても信じられないけど)の普通の人間。体つきを見るに武道はやっていないみたいだし、刀の無造作な持ち方からしても、心得があるとは思えない。


 と、なれば。私達に十分勝ち目がある。数的有利だ。多勢に無勢はこの世の心理。どれだけ恐ろしかろうと、碧花さんは私と同じ『女性』。その実態は、きっと脆い。


「…………」


 振ってから下ろすまで、大体二秒弱かかると仮定して。それまでに私が手にとれる物は割れた鏡、手ごろな大きさの角材、釘。かくいう私も戦闘の心得なんて無いけど、今は命が懸かってる。出来る出来ないじゃなくて、殺らなきゃ死ぬだけだ。


「あ、碧花さん。この状況、分かってますか? 神乃も私も、死にたくありません。抵抗……しますよ」


「やってみれば?」


 分からない。一体何処からこの余裕が来るのだろうか。条件は私と同じで、何もかも素人の筈…………いや?


 そこで私はとんでもない考え違いをしている事に気が付いた。刀の心得が無い? そんな訳あるか。たった今この人は、障子を斬り倒したばかりだ。まほろばの障子が現実の障子と一緒だと仮定すると、心得が無いなんてそれこそあり得ない。どれだけ切れ味が鋭くても考えられない。



 ―――二人で掛かっても、どちらかは確実に死ぬ。



 未来を見ているのかと自分でも錯覚するくらいの確かな予感。考えなしに突っ込まない方が良いだろう。神乃の手を掴んでそれとなく制止をかけつつ、私は必死に時間を稼ぐ。


「い、今まで人を殺してきた時も、か、刀を使ったんですか?」


「……誰が使うか。たまには使うけど、法律の目を掻いくぐらなきゃって時にこんな目立つもん携帯する奴が何処に居る。何だ、時間稼ぎか? そんな事しても自分の首を絞めるだけなのに、余程殺されたくないらしいね」


 殺されなければ、碧花さんは狩也さんを人間に戻せないから。喉まで言葉が出かかったが、咄嗟に思いとどまって、沈黙に切り替える。


 私は馬鹿か。そんな事を言えば、直ぐにでも殺そうとしてくるに決まっている。


 時間稼ぎしているのは一体何の為だ。突破口を探る為だろう。それを自ら無駄にする奴があるか。


「…………殺されなければ、お前はあの弱虫を人間に戻せないからな」



 ―――せっかく踏み止まったのに、神乃がうっかり漏らしてしまった様だ。



「……へえ。そういう狙いか」


「神乃ッ!」


 どうして彼女はいつもいつも余計な事しか言わないのだろうか。本当に彼女だけを狙っているつもりなら私が盾になればいいが、どちらでもいいと碧花さんは言った。なら盾になっても、そのまま斬られるだけだ。


 碧花さんが刀を振り上げた瞬間、私は彼女の顔目掛けて角材を投擲。命中したか否かに拘らず、神乃の身体を引っ張って、出鱈目な方向に走り出す。この辺りは家の密集地帯で、どう移動しても家から家を通過する事になる。


 それでどうにか視線を切って、今度こそ逃げればいい……のだが、最初に逃げた時も視線は切ったし距離は離した。それでも追いついてきたのだから、本当に逃げ切るには、絶対に彼女が足を踏み入れられない場所へ行くしかない。


  だがそんな場所、あるだろうか。まほろばの地理では彼女に利がある。そんな彼女に入れない場所は―――場所は―――



 


 場所は―――――――――





『この情報をどうするも君の自由だ。恐らくこの話をすれば、首藤狩也は色々と察する事が出来るだろう。もしもそうなれば、二人の関係は崩壊する。それをネタにあの者を強請ってみるのも一興』



『そうだ。契約の話を知ってる奴は生かしておけない。仮にそれでここを脱出する手間が更にかかる事になったとしてもね』



『…………じゃあもし、首藤君が真実を知って、貴方を糾弾したらどうするの』



『……生きて帰れると思うなよ、御影由利。狩也君にその戯言をほざく前に、息の根を止める』





『…………面白い。彼は自分の目で見たものを何より信用する。私は彼の前で殺しは絶対にしないし、だから今まで彼の視界に映りやすい君達には手を出さなかった。教えるつもりなら、ここで殺すよ』







「神乃! 私達も狩也さんを探そうッ。きっと、そこが唯一の安全地帯だから!」







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