あり得た世界に俺は戦慄く



「わ、悪い……その、突然部長に呼ばれたもんでさ」


「部長…………? ふーん、で。君は出会って長い私よりも、そんな人の事を優先してしまうのか」


「誤解を招く言い方するなよ! 確かに連絡しなかったのは悪いけど……ていうか、お前も電話で無かっただろッ」


「おや、話を逸らすのか」


「いいや、逸らしてなんかない! 飲み物を買いに行っただけなのに遅すぎるんだよお前! 俺が……俺がどれだけ心配したか…………」


「―――ひょっとして、心配してくれたのかい? だから外に出てきたの?」


「いや、それは違うけど…………」


 俺は悪くない筈だ。部長は実際に危機に陥っていたし、俺が出なければ死んでいた可能性まである。碧花に睨まれていると、まるで自分が悪い事をした……敢えて格好つけた言い方をするならば、己の中の罰を見つめられている気分になるが、俺は悪くない。だって、良い事をしたから。


 碧花の視線が逸れ、俺の罰は表面から姿を消した。


「まあいいよ。君が外に出たって事は、もう八石様云々は解決したって事だよね」


「おう。何か知らんけど消せたっぽいから…………消せましたよね、ぶちょ―――」


 振り返った時、部長の姿が無かった。


「あれ?」


 途中で部長を追い越した事は知って居るものの、この会話の間までに差が縮まっていない筈があるまい。これは何処かの階で階段を下りるのをやめた可能性がある。俺が慎重な足取りで逆走を始めると、静かに彼女も付いてきた。



 四階。



 部長達の部屋がある階層だ。彼らの部屋は僅かに開いており、物理的にオートロックが掛からぬよう、クオン部長の仮面が挟まれている。



 いやしかし、待って欲しい。部長は屋上に着た時、仮面を被っていなかった。



 というか、だからこそ会話の最中、彼は一度たりともこちらに顔を向けなかった。何故そうまでして顔を隠すのかは分からないが、とにかく彼が外を徘徊し始めた時には、既に仮面は外れていた。これだけは確かだ。俺は萌と二人で仮面の魔除けについて話していた記憶がある。その萌は俺から天奈捜索の依頼を受けて部屋には居ない筈。


 どう考えても、動いている人数が一人多い。あの仮面を挟める様な人物が何処に居たというのか。もしかしたら本当に居るかもしれないので、俺はゆっくり部長達の部屋に近づきながら思考を巡らせる。


 碧花は飲み物を買いに行っていたので違うだろう。そもそも、今回の件と関わりがあるのかどうか。それに直前まで彼女とはビデオ通話をしていたので、彼女ではない筈だ。


 部長は言わずもがな、施設外のラブホテルに行っていた。そんな人間がどうやって戻ってくるのか。あの息の上がり方が偽物だったとは思えない。オカルト部とはいえ、フィールドワークを何度も行う様な人物が、あからさまな息切れをしようと思ってもそれなりの距離が無ければ駄目だろう。ならば階段を往復すれば良い話だが、そんな音を俺は聞いていない。


 萌は、する意味が分からない。只、捜索する事で部屋ががら空きになって入れなくなるのを防ぐ為、という事ならば一番自然に納得がいく。



 因みに、俺の部屋にそんな摩訶不思議現象は起きていない。碧花も含めて完全に閉めだされたので、一件が落ち着き次第、フロントに頭を下げに行くつもりだ。



「……部長?」


 彼が外れたとすればこの階以外にはない。扉を開けると、挟まれていた仮面が落ちて、床に転がった。拾い上げると、その仮面。何かが足りないと俺の中で記憶が囁き始めた。


 そう、紐だ。紐がなければ仮面の内側にでもボンドを塗らない限り被れない。それがいつの間にか消えているではないか。部屋の奥では、部長が何かを見つめながら立ち尽くしていた。角度次第では横顔が見えそうだが、奇跡的にも壁の端に邪魔されて、彼の顔の前半分……つまり、一般的に仮面で隠れてしまう部分は見えない。狙っているのだとしたら、部長は真性の天才である。


「部長! 何見てるんですかッ?」


 俺が不用意に近づこうとすると、部長の方から一切の冗談が通じない制止が飛び込んできた。



「これ以上来るな」



 一言言ったきり、彼は部屋の奥へと歩き出してしまった。先程も余裕が無かったが、今回のそれは余裕が無いというより、何らかの激しい憎悪を、何処へも向けられないストレスの様に見えた。言われた通り俺が戻ろうとすると、後ろから付いてきた碧花が扉の前で仁王立ちをした。


「な、何だよ」


「血の臭い」


「は?」


「鼻が詰まっているのなら申し訳ないけど。血の臭いがする…………どうやら、何かあったみたいだね」


 血の臭い…………何も感じない。いや、もしかしてこの肉が腐った臭いが血の臭いなのか。俺はもっとこう血の臭いというものは鉄臭いものだと思っていただけに、気が付かなかった。というか―――


「それ、お前の臭いじゃないのか?」


「君、女性に対して失礼な事を言うね―――でも、無理もないか。こんな臭いに十分と触れたらうつりかねない」


 この鼻を擽る臭いが血の臭いだとするなら、俺の胸を騒がせるこれは、文字通り胸騒ぎなのか。彼女が興味津々という事もあり、俺だけがここから逃げる訳にもいかなかった(碧花に情けない男と見られたくない)が、何故だろう。見てはいけない光景が、その先に待っている気がする。


 息を呑んだ。


 人の部屋を覗き見る事だけにここまでの緊張は無かった。では、どうしてこうも緊張するのか。それは第六感的な理由に基づかせてもらうならば、この先にある光景は、十中八九俺の心を動揺させるかもしれないものだから。


「…………行くんだよな?」


「君の不運が働いた、とは思いたくないだろう? 君自身もさ。なら確認しないとね」


 それもそうか。俺は碧花の袖を掴みながら、ゆっくりとした足取りで部屋の奥へと足を踏み入れた―――


















 ひしゃげた体は、拙い土偶みたいに歪んでいる。本来は端正だった顔立ちが、何らかの刃物でずたずたに引き裂かれ、皮がべろりと剥がれかけている。その身体には幾つもの五寸釘が突き立てられており、死に際の表情は半分崩壊しているものの、苦悶の末に死んだ事が分かる、おぞましい表情だった。


「あ………………あ」


 両足の指は全て切り落とされ、指は生爪が全て剥がされている。ベッドに見えるペンチがそれをやったのだろう。想像を絶する光景に、俺は背後の壁に腰を掛けた。



「あああああああああああああああ!」



 瞬きを一つ。その瞬間、俺の見ていた地獄は塗りつぶされ、確固たる現実が俺の視界に帰ってきた。そこには何てことのない萌の姿があり、唯一変わった事があるとすれば、ベッドから滴る量の血だまりの中に、下着姿で倒れている事か。部長が奥に移動したのは、彼女の脈を診ていたからであった。


「狩也君?」


「あ―――ああ」


 俺は気を取り直して、碧花の袖を借りて立ち上がる。今の光景は、一体。俺の想像力ではとても作れそうにない、あまりにもリアルな幻覚だったが。


「クオン部長ッ。その……、萌は」


 見た目こそ綺麗だったが、萌は死んだ様に眠っている。先程の凄惨な死に方でないのが幸いだが、とはいえ死んでほしくは無かったので、俺は部長に倣って向こう側に回る。手首を握ってみるが、脈のはかり方が分からないので、何の情報も得られなかった。


「気を失ってるだけだ。何か、睡眠薬でも飲まされたんじゃないか?」


「何で分かるんですか?」


「君には劣るが、俺も萌も超常的な存在に襲われた事はある。それを繰り返せば、必然的に自分を守る本能が鍛えられるというものだ。だから背後から襲おうとしても普通は気付いて逃げるだろう。しかし体の状態を見る限り急いで逃げたとは思えないし、そもそも部屋の様子といい抵抗が見られない。となると、警戒しない方向から眠らされたという事になる。例えば…………信用している人、とかな」


 クオン部長は純白の瞳で俺を見据える。応急処置のつもりか、彼はシーツを被っているのだ。今は顔を隠している場合ではないと思うが、部長にとっては人命以上に優先されるべき事項らしい。その神経は、幾ら何でもよく分からない。


「お、俺な訳ないでしょ! 大体部長と一緒に屋上に居ましたよね?」


「……まあ、そうだろうな。しかし、急がば回れとは良くいったものだな」


「え?」


「血だまりの中に人が倒れている状況を見れば、普通の人間は死体と思い込んで逃げるか通報しにその場を離れる可能性が高い。もしもそれを狙っていたのだとしたら、俺達が通報しようと部屋を離れていたら、本当に死んでいただろう」


「…………で、でも。そういう時って見張りの人を立てれば良いじゃないですか。この場合だったら、碧花とか―――!」




「その見張り人が犯人じゃない証拠が何処にある」



 部長の声音が強まった。あらゆる反論を許さない、上から抑えつける様な声が、俺に一切の反抗的態度を持たせなかった。


「ど、どうしますか? やっぱり通報した方が」


「…………いや」


 部長がシーツを被り直してから、俺の肩を掴んだ。


「お前達は戻れ。通報はしない。今日の事は忘れろ、いいな?」


「は? いやいやいやいや。血が出てるんですよ? 通報しないと―――」


 クオン部長は両手を前に突き出して、一旦言葉を切ってから、確かな言葉で言った。


「今日、何も起こらなかった。はい、オーケー?」



 ―――。



「いやいや! 俺達の認識だけ変えても、こんな血があったら他の人が泊まれなくなるでしょッ!」


「大丈夫だ。後処置は俺がする。お前達はとにかく帰って、甘い一時でも過ごせ。じゃあな」




 


 部長は強引に俺と碧花を部屋から追い出し、さっさと扉を閉めてしまった。





「な、何だったんだ…………」


 彼は何をするつもりなのだろうか。あの血を一晩で消し去る事なんて無理だと思うのだが。同意を求めるべく彼女の方を見ると、


「馬鹿な…………しは、―――かに」


 碧花は締め切られた扉を見据えながら、何かについて酷く驚愕していた様子だった。  

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