◉の鉈

 次はない。直球でそう言われた今、俺は今までの楼の慈悲深さに感謝した。そして同時に、次からは絶対に遭遇したくないと考えていた。

 多分、戦っても勝てない。

 帰宅するとは言ったが、それもインチキして帰るのだろう。尋常な手段で帰ろうと思えば、よっぽど足が速くない限りかなりのロスになる。だがインチキ出来る彼には距離の概念が全く問題になっていない。

 五分と言わず、既に帰宅して準備を整えている可能性すらある今、モタモタと歩いてはいられない。斧はメチャクチャ重いが、これを捨ててしまうと何かとんでもない事が起きる予感がしたので、頑張って持ち運ぶ。

 初めて持った訳じゃない。斧は薪割りによく使っていた。暫く持ったり振り回すだけなら体力に支障はない。ただこれを持って長時間走り回るとなると話は違う。違いすぎる。

 単純に体力がないとも言えるが、一キロに満たない水ですら、手に持ったまま長時間走るのはきついものがある。手の疲労が、本来以上の重量を生み出しているからだ。

 水ですらそんな有様なのに、金属で出来た斧の何を見れば大丈夫と言えるだろうか。引きずってでも持っていく覚悟だが、楼はこんなものを投擲していたのか。重いから緩やかな軌道でも当たればそこそこ痛いだろうに、そう言えばかなりの速度で投げてきた様な。


 ……本気のアイツなんて想像したくねえな。


 見た目に惑わされてはいけない。楼はきっとゴリラなのだ。ゴリラに立ち向かう馬鹿は居ないだろう。俺みたいな素人は銃でも持たない限り、決して勝てない。

「せんぱーい!」

 再び人形屋敷の所まで戻ってくると、階段を上った先で萌がぴょんぴょんと跳ねながらこちらに手を振っていた。由利の姿は隣にない。合流……した?

 階段を上ろうとした所で彼女も降りようとしてきたので、階段を挟んで、俺達は一度停止した。

「萌。由利は居なかったのか?」

「居なかったんですけど、居た痕跡はあったんですよね」

「どういう事なのかさっぱり分からん」

「付いてきてくださいッ。案内します」

 彼女は躊躇する事なく入っていったが、以前述べた通り、人形屋敷は玄関からして達磨状態の人形が吊るされていて不気味だ。入りたくない。明らかに人形の視線がこちらを向く様に吊るされているせいだろうが、立ち止まっているだけで段々不安になってくる。

「ま、待てよ!」

 一人にされたら足が止まる。萌の姿がまだ見える内に、意を決して俺も足を踏み入れた。


 案の定というか予想以上というか、外面からして不気味だったこの屋敷の中身がまともである筈が無かった。


 二階とは違って人形が吊るされたりはしていないが、代わりに壁という壁に人形の頭部がついていて、そのどれもが侵入者である俺達を虚ろな表情で見つめている。もしかしたら一つくらい、頭部ではなく生首があるかもしれないと思って、萌を追う挙動は奥へ進む毎に不審になっていった。

「先輩、遅いですよー」

「ま、待てって」

 萌の慣れ具合は経験済みでもない限り説明がつかない。まほろばに行った事はないらしいが、この人形屋敷に類似した場所には行った事があるのだろうか。それとも俺と分かれた時に散々驚いたから慣れた……いやあ、慣れるとか慣れないとかそういう問題じゃない気もする。こういう景色に慣れるのは、それはそれで大きな問題があるだろう。

 幾つもの頭部と視線を合わせつつ奥まで進むと、突き当りの所で萌が立ち止まっていた。

「ここです、先輩」

「え?」

「御影先輩の痕跡、これです」

 屋敷内はかなり暗く、遠目では痕跡とやらが良く分からない。慎重な足取りで(転びたくない)近づくと、それは痕跡にこそ違いないが、間違いなく血痕だった。

「―――これが……居た痕跡か?」

「はい。この出血、多分御影先輩だと思うんですよ。根拠は無いんですけど、先輩、フィールドワークでも良く出血するんで」

「……それを根拠にしてやるなよ」

「いや、本当に良く出血するんですよ。ゴミ子さんの調査をしてる時なんか、失血死寸前だったんですから」

「猶更根拠にしてやるなよ!」

 しかしこのまほろばには俺、碧花、萌、由利しか居ないので、消去法でも由利になってしまうのは否めない。碧花の可能性も客観的に見ればあるのだが、彼女が怪我をするイメージが全く湧かない。どちらかと言えば怪我をするのは俺で、碧花には何度もお世話された記憶がある。

「…………ん?」

 この血痕、ここで終わっている。本来の持ち主が誰であれ、居ないという事は移動したか、されたか。なら血の滴りが道として残っている筈だが……あれ?

 そう言えば、既視感がある。

 ついさっきの事だけに、忘れる筈もない。あの腕も切断自体は最近の事だったにも拘らず、血痕が道になっていなかった。あの時は単純に不思議な事もあるものだと思ったが―――ここでも同じ状態となると犯人は同一犯なのだろうか。いやはや手口は全く思いつかないが、大したものだ。これでは痕跡が絶対に残らない。

「どうしましょう……」

 いや、痕跡は絶対残っている筈だ。俺は気分が悪くなるのを推して、血痕を隅々まで観察する事にした。あの腕と違うのは、一応周囲に飛散してはいるという事。少なくとも腕よりは随分情報がある。


 ―――不自然だな。


 パッと見では暗闇もあって気付かなかったが、血があまりにも不自然に途切れている。仮にも液体が飛び散った痕が真っ直ぐになっているのはおかしいだろう。壁に染み込んだにしては、綺麗にしみこみ過ぎだ。ここだけならいざ知らず、反対方向にも同じく不自然な散り方をした血痕が見える。まるで紙の隅々にまで絵具を塗ろうとした時みたいだ。

 細かい奴は単純に細い筆を使うのかもしれないが、俺みたいな大雑把な奴は机を汚す覚悟で大きい筆を大きく引く事で塗りたくる。机にも絵の具が付くが、そんなものは後で洗えばいい。もしかすると、これはそれと同じ類のものなのだろうか。

 要するに、ここだけ『壁』ではない可能性があると言いたい。何か隠し扉的な……少なくとも、普通の壁ならこうも不自然に血液が鋏で真っ直ぐ切ったみたいに途切れるなんてあり得ない。問題があるとすれば、その何かをどうやって動かすかだが……幸い、壁は木製だ。

「萌、ちょっと離れてろ」

「先輩? 何をするつもりですか?」

 何をするつもりとは、一体どういう事なのだろうか。俺は目の前の壁に向かって斧を振り上げている。ここまですれば、俺のやりたい事くらい想像がつくだろう。

「決まってるだろ。壁を―――」


「壊すんだよ!」


 渾身の力を振り絞って斧を振り下ろす。確かな手応えと共に刃が食い込んだが、その手応えは随分と軽い気がした。もしも自分が振り下ろした先が木、或は土の塊なら、もう少し重い手応えが来る筈なので、これは壁の向こうに空洞がある。確信しても良いだろう。

 そうと分かれば話は早い。斧を抜いてもう一度振り下ろす。

 もう一度振り下ろす。

 もう一度振り下ろす。

 もう一度振り下ろす。

 もう一度振り下ろ―――

「先輩ッ!」

 萌の声を聞いて、脊髄反射で手が止まる。

「何だ?」

「う、後ろ……」

「後ろ?」

 斧を抜いて振り返ると、背後に立っていたのは虚無僧……もとい雪せつだった。相変わらず鉈を持っているが、こんどのそれは大鉈であり、先程と比べると大きさは二回り以上も違う。

 俺が気付いたのとほぼ同時に、雪は鉈を引き摺りながら一直線に走り抜けてきた。

「おおおおおおおッ?」

 萌を押し込み、さしあたり左にあった部屋へ逃げ込む。早すぎる。鉈を持って走る速度じゃない。斧を使って閂を作る事も考えたが、俺みたいに扉をぶっ壊せばいい話なので、あまり意味は無いだろう。

「ど、ど、どうしますかッ!」

 迫りくる雪の姿が恐ろしくてつい逃げ込んでしまったが、この部屋は行き止まり、しかも気味の悪い人形がたくさんあるだけの物置みたいな部屋だ。人形を投げてもそこまで怯むとは考えにくいが、迎え撃って勝てるとは思わない。


 バンッ!


 扉から突き出たのは雪の持っていた大鉈。鍵はかけられていないのだが、扉の死角からの不意打ちなんかを警戒したのかもしれない。一回目の具合から逆算すると、後二回も振り下ろされれば扉はその役目を終えるだろう。

「…………」

 扉の前に立って、斧を両手で握りしめる。その間に二回目が終わり、扉は既にボロボロだ。隙間から中を覗き見れば、俺が待ち伏せしている事くらい直ぐに見抜ける。しかしそれでもやるしかない。 効くかどうかは知らないが、待っていてもやられるだけだ。ならばやるしかない。俺が足を斬られるだけならともかく、後ろには萌が心配そうに見守っている。その心配を杞憂だと笑ってやるのだ。

 守れなかった妹の代わりにはならないが、『先輩』として、『後輩』すら守れない様では俺に生きてる価値はない。そんな奴の事を碧花が好きになってくれる筈もない。

 三回目の振り下ろしが終わった直後、構えとか重心移動の事は一切考えず、頭部の辺りめがけて俺は斧を突き出した。


 

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