怪異が木霊する

 トイレを無事に終えた俺は、従来の予定通り碧花と水族館へ向かう事にした。良く言えば最高、悪く言えばありきたりな水族館とはいえ、自然の神秘や生物の美しさに心惹かれる碧花には十分楽しめる施設だった。俺も碧花の解説があったから中々楽しめたし、説明を聞いているという建前を使って、半開きのパーカーからずっと谷間を見ていた。



 何してるんだ、俺。



 ちゃんと水槽は見ていた。生物も見た。ただ谷間を見てた。それだけの話だ。貧乳好きだったとしても、碧花くらい大きい人は滅多に居ないから、一度は目にしてしまうだろう。それと同じだ。


 正当化してはみたが、碧花がそれを知らずに解説してくれていると思うと何だか申し訳なかったので、ちゃんと解説は聞いていたし、純粋に水族館は楽しんでいる。確かアザラシはキク科の多年草だった気がする―――


 正直に言うと、解説は聞いていたのだが、専門的な用語が多すぎて半分も理解出来ていなかった。


「素敵な水族館じゃないか。私は好きだよ、こういうの」


「俺には普通の水族館と変わりないように思えるんだけど」


「いやいや。ガラス張りにして上下も水槽にするという発想は素敵だと思うよ。いつ硝子が割れて水が浸水してくるかもしれないというリスクだって楽しめるしね」


「縁起でもない事言うなよな…………」


 そうなった場合、俺はあの世へ碧花と共にランデブーなのだが……実は満更でもない……碧花は心底それを望んでいるかの様に笑っていた。その顔がちょっと怖くて、俺は若干碧花から距離を取った。二秒と経たず直ぐに戻したが。


「しかし不思議な構造をしているね。通路を歩いていると、今私達が何階に居るのか分からなくなりそうだよ。今何階だと思う?」


「え―――えーと、螺旋の坂を上ったし、三階くらいか?」


「いや、一階だよ?」


「え?」


 いつ下りた。下り坂など一度も遭遇していないのだが。


「君、水族館の外観を見ていないのかい?」


 現在進行形で、すれ違う人々にも見られている彼女の谷間を横目でがっつり見ていたので外観など知らない。なんて言ったら、スタンガンを当てられてしまいそうなのでやめておく。持ってきていないとか言っているが、嘘だ。どうせ隠している。俺は知っているのだ。学校にだって持ってきているくらいだから、プールの時に持ってきていない筈がない。


「いや、見てないな」


「二階も三階もある様な構造じゃないんだよ。どう見たって一階だけ。ホテルのエントランスホールみたいに広い一階と言えばいいかな。だからどんなに上がろうが下がろうが、ここは一階なんだよ」


「へえ……でもお前、何階に居るのか分からなくなりそうって言ってなかったか?」


「そうだけど。その後に『今何階だと思う?』って問題を出したよね。問題を出したって事は答えを知っていなければならない。私は一言もここは一階ではないなんて言っていないし、何も間違った事は言っていないよ」



 ず、ズル。



 そんなのってありかよ。意図的に勘違いを狙った発言である事は言うまでもない。



 というかこの水族館、そんな摩訶不思議な構造をしていたのか。特に気にも留めていなかったが、確かにありふれたと表現するのはまずかった。訂正しよう。色々な意味で芸術的な水族館だ。


「だとすると、本当に面白い水族館だな」


「水中の美しさに理解の無い人も楽しめる構造って事だ。流石に目の付け所が違うね」


「いや、理解が無い人が水族館来る事ねーだろ」


 それは一般的な感覚で言えば、絵画などでその美しさや凄さも分からないのに、美術館に足を運んでいるようなものだ。偏見じみているので申し上げにくいが、たとえば俺であれば美的センスは皆無なので、有名画家の絵画などを見てもヘタクソな落書きにしか思えない。のり弁で再現出来そうなクオリティにも見える。


 そんな奴が足を運ぶ訳が無いだろう。水族館だって同じである。


「いやいや、分からないよ。たとえばデートで彼女に合わせる為に来たのかもしれない。その場合、彼女は楽しくても彼氏君は楽しくないだろうね」


 碧花が何故か、俺を見た。


「ね?」


「な、何だよ。俺はちゃんと見てるぞ」


「私の胸をかい?」


 図星だったが、それに関しては俺も言いたい事があるので、背水の陣を張って俺は応戦する。 


「い、いいだろ別に。見られる様な格好してるお前が悪いんだからッ! 見られたくないならちゃんと上までチャックを上げればいいんだよッ」


「これが一番楽なんだから、仕方ない。とはいえ、逆切れは良くないな。私は別に怒っている訳じゃないよ。というか、君に見られるなら何の問題も無い」


「……え、痴女なんですか?」


「早計な結論だね。私が以前も言った通り、水着はお洒落だ。見られて恥ずかしいなら裸と変わりないし、恥ずかしいなら水着を着なければいい。違わないよね」


「ま、まあな」


「だからまあ、見たいなら好きに見てくれ。私が言いたいのは、君がそうやってチラ見ばかりしてくるせいで、楽しんでいるのかどうかが全く分からないという事さ」


「た、楽しいに決まってるだろ! お前と一緒なんだから、楽しくない筈がない!」


 口から出た言葉は、隠しようもない真実ばかりだった。嬉しいやら悲しいやら、俺の同学年の友達は水鏡碧花一人だけ。そしてそんな彼女が、とても生き生きとしているのがこの場所だ。魚や水中生物の説明をしている時の彼女の顔を、俺は前に一度見た事がある。ペットショップに行った時だ。あの時も彼女の顔はこんな風になっていた。 


 普段は澄まし顔だが。普段が澄まし顔だからこそ、俺は彼女の笑顔が好きだった。彼女の生き生きとした表情が、女の子らしい表情が好きだった。


「……本当に?」


 俺の心からの言葉にも、碧花は疑いを隠せない様子だった。


「本当だ!」


「…………じゃあ」


 碧花が顔をそっぽへ向けつつ、俺に手を差し出してきた。別にお金とかがある訳ではない。こんな所で渡されてもどうしようもないし。


「君が……リードしてくれよ。本当にそう思ってくれているんだったら、出来るだろう?」



 




 それはつまり。手を繫いでくれという事であろうか。






 急に、全身が強張ってきた。碧花の格好に原因があるのは間違いないが、それ以前に俺が手を繫いでいい存在なのかどうか。


 上着だけを着ている関係上、彼女が履いているスカートタイプの水着は露出しっぱなしだ。これによって、俺はまるで碧花がミニスカートを履いている様な錯覚をする。この時点で色々と悪いが、それだけではない。俺は『首狩り族』という異名のせいで女性との縁に恵まれなかった存在でもあるので、結果的にデートをしているとはいえ、果たしてこんな時に手を繫いでいいのかどうか。


 手を繫ぐだけであれば、プールを移動する際にやった事だ。だがこの水族館で同じ事をすれば、それはもう、本当にカップルではないか。


 俺の手が碧花の手に重なる。ずっと握っていたくなるような柔らかさだ。今更で悪いが、凄く綺麗な手をしている。


 まるでこれこそが、真の芸術であると言わんばかり。


「俺は良いけど……お前はいいのか? 俺がリードすると、お前が見たい場所とか、もしかしたら後回しになるかもしれないぞ?」


「後回しになろうがなるまいが、最終的に全部見て回るんだろう? ならどうでもいいさ。私は私で君が聞きたい解説をする。ウィンウィンだね」


「お、おう。なあ所でさ……本当に、見ていいのか? その、えっと…………胸を」


 徐々にか細い声になってしまったが、碧花にはしっかりと届いた様だ。彼女は恥ずかしがって言いにくそうにする俺に対してフッと微笑んで―――






 一瞬の内に俺の腕を捻り、気づけば俺と碧花は腕を組んでいた。






 驚いて言葉も出ない俺に、碧花が小声で呟いた。


「リードを頼むよ、狩也君」 






















―――ジャマをするな。





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