俺を守ってくれたもの

 俺は心の中で全員に説いた。この場に居なくてもいいから、どうか答えて欲しい。君達は人間の首が転げ落ちる様を見た事があるだろうかと。俺は無かったし、何ならそのまま無い方が良かった。そういう現象を見るのは、アニメや漫画だけで十分だ。

「………………」

 思考停止。少なくとも俺はそうならざるを得なかった。というより、一般人にそれ以外の反応を求めないでもらいたい。これ以外の反応があるとすればそれは大声で叫んでしまう事だが、残念ながら驚く事すら俺には赦されなかった。何故か? 初めて見る光景の凄惨さったら、俺の想定を遥かに超えていたのである。

「………………」

 沈黙。どういう反応をして良いか分からなかった。碧花なら多分分かってくれるだろうが、人間は想定外の事態に直面した時、驚愕のメーターが振り切れて、何の反応も起こせなくなる。反応が起こせるとしたら、それは深層心理で事態が受け止められてからの事である。

 それを俺に変換すると、まず最初に尻餅をつく。そして地面に転がった生首を見て、何度も何度も瞬きをして。それからようやく、叫び声を上げる。

「あ…………」

 最初は上手く声が出せなかった。喉からギリギリ絞り出した様な、掠れた声。後ろに居る碧花も同じ事になっているのだろうか。声が聞き取れない。




「あ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」




 怪物の事なんか気にしていられる訳も無かった。俺は本能のままに叫び、そして全力で後ろに逃走した。尻餅をついた事で血痕が俺の尻についているが、知った事じゃない。角に当たって、それでも後ろに下がろうとする。

「あああ、ああああ! あああああ!」

 言語能力に支障を来していると思ったのなら、それは正しい事だ。俺は俺自身の為に、それを言い表そうとしなかった。理解してはいるのだが、言葉に表してしまえばそれで終わる様な気がしたのだ。俺は背中が壁にも拘らず、後ろに下がろうとした。腰が抜けている事に気付いたのは、その時である。お蔭で部屋から出ようにも、俺は這って廊下に出なければならない。



 しかし廊下に出た際にあの怪物と遭遇したら腰が抜けている俺では逃げようにも逃げられないし何より碧花に情けない姿を見られた事が俺にとっては致命傷に違いない確かに俺は自分から弱い事を自覚しているがそれとこれとは全く別の話な筈だ今彼女だって怖い筈なのに俺がこんな風に怖がっていたら守ろうにも守れない―――



「んくッ―――?」

 思考停止が再来する。それは恐怖によるものではなく、落ち着いた足取りの碧花が、徐に俺の身体を抱きしめたからだった。そして俺の顔を強引に胸へ埋めさせて、物理的に叫び声を封じた。小学生の胸の大きさなどたかが知れているが、それでも確かな感触を感じる辺り、碧花は発育が進んでいる。

 間もなくそれを理解すると、俺は直ぐに顔を離そうとしたが、彼女の力は男である俺を遥かに凌いでおり、俺には成す術も無い。

 彼女はただ一言。

「落ち着いて、狩也君」

 小学生とは思えない程冷静な声が、俺の耳元で囁かれる。声は瞬く間に俺の身体を侵食し、抵抗というものを全て剥いでいってしまった。さながらその効力は、猛毒にも引けを取らない。実際、女子への印象を気にし始める年頃の俺にしてみれば、彼女の身体は毒であった。

 五分が経過した。俺はずっと彼女の胸に顔を埋めており、彼女はそんな俺をずっと抱きしめていた。背後では首の落ちた死体がある事を、ここに来て俺はようやく許容する事が……出来てはいないが、俺の視界にそんなものは移っていない。妄想として処理をすれば、十分許容範囲だ。

「外に…………出るよ」

 俺を抱きしめたまま、碧花がゆっくりと教室を出る。怪物の歩く音は聞こえない。あれだけの叫び声をあげても来なかったという事は、単に耳が無いのか、それとも移動が遅すぎて来れていないのか。

 どちらでも良い。俺は碧花の息が少しだけ上がっている事に気付いた。いや、上がっているというよりかは単に早いだけか。その原因が何であるかは言うまでもあるまい。俺が発狂寸前にまで陥ったあの光景である。碧花のお蔭で一応、正気には戻ったが、彼女は一人であの光景を受け止めたのだ。その負担は俺によって察せられなければならない。

 廊下に出ると、彼女は後ろ手に扉を閉めた。俺はようやく彼女の胸から解放され、一時の喪失感を獲得する。

「あ、あれは…………先生、か?」

「畑川先生だね。体育の教師だったかな」

 畑川良也ハタカワリョウヤ。この小学校の体育教師である。それ以上の情報を、俺は知らない。何でここに居るのかも。何で首が落ちているのかも。分からない事だらけだ。

 今更な話だが、この遊びはやはりおかしい。想定外の事態というか、遊びを始めた本人の与り知らぬ事がおき過ぎている。

「な、何でここに…………い、居るんだ」

 出来る限り視線を逸らしながら俺は言った。外面上は、あの怪物が来ないかどうかの警戒である。碧花は人によっては冷淡とも取れる態度を示しながら、頭を掻いた。

「私に尋ねられても困る。一番分からないのは私なんだから」

「……気になる言い方だな」

「―――私の野暮用というのは、これの事だよ。実は今日、私は畑川先生に呼び出されていたんだ」

「へ? よ、夜の校舎にか?」

「そう。何やら私に話があるらしくてね。明日話せばいいのにとは思ったけど、一応先生の命令だし。私はここに来たって訳だ」

 そう言われて俺は、いつだったか俺が孤立する前に見せてもらったエロ本の内容を思い出した。詳しい内容は、残念ながら当時は女性に興味の無かった俺が見ていたので覚えていないが、確か教師が大人の授業とか何とか言って、俺達と同じくらい―――当時換算で、つまり小学二年生の女子を犯していた筈。

 当時の俺は内容云々よりも、こんな本を学校に持ち込んだ奴の神経を疑ったものだが、今思えば背徳が過ぎる内容だった。真っ先に思い出した辺り、詳細が思い出せないとは言っても、やはり衝撃が大きかった。

「そ、それってさ…………大人の授業って奴じゃないか?」

 碧花はぽかんとして、首を傾げる。

「オトナノジュギョウ?」

 聞き慣れない単語を聞いた時、人はしばしばこんな具合に首を傾げるものである。無理もない。まだ俺達は四年生だ。性知識が皆無な女子が居ても不思議はない。むしろ早くに獲得出来た事を俺は幸運に思うべきだし、無知なままでいる事を碧花は幸運に思うべきだ。


 その純朴さが、彼女の魅力に一役買っていると言っても過言ではないのだから。


「ごめん。何言ってるのか全然分からないよ。オトナノジュギョウって何?」

「え―――いや、別に。違うなら、いいんだ」

「私の好奇心が昂っている。狩也君、君は知っているんだろう? 意地悪しないで、教えてくれよ」

「いや、意地悪っていうか―――」

 好奇心、猫をも殺すとは言うが、そんな事を彼女は微塵も恐れていないらしい。教えると言ったって、どうすればいいのか。実際にやってみるのが手っ取り早い事は確かだが、俺は壮一とは違う。女性とは健全なお付き合いの下に交流を図るべきだ。あんな糞下衆野郎と一緒なのは性別だけで、その他一切は正反対である。

 同じ性別に生まれてきた事すら、恥と思っているが。

「…………な、何だよ」

 俺がどうしても渋るので、碧花は口を尖らせながら、不機嫌そうに頬を膨らませた。

「―――教えてくれたっていいじゃないか。減るものじゃないのに」

「いや、あの…………うーん。えっと」

 この時程、俺は国語の授業を真面目に受けていなかった事を後悔した。真面目に受けてさえいれば、こういう時にもきっと切り返せただろうに。

 その意味が性行為などとは口が裂けても言えないので、どうにも説明のしようがない。赤色を見たことがない人に赤色の説明をしようと思っても無理なのと同じである。その場合、現物が無ければ説明は出来ないし(たとえばリンゴを持ってくるとか)、その理屈で行くなら俺は彼女と性行為をしなければならない。





 やる訳がない。   





 こんな時にやれる奴が居るとすれば壮一くらいだが、もしも碧花を襲おうものなら俺が許さない。アイツを病院送りにするくらいの覚悟は持っている。こうも距離が近づいた今となっては、彼女の事が大好きなのだ。好きな人が奪われる光景など見ていられない。

 悪いが俺は、法律を遵守する人間とは言い難いのだ。基本的には守るが、好きな人一人も守れないで何が『好き』か。正当防衛だろうが過剰防衛だろうがもう何でもいい。俺はアイツの事が大嫌いだ。そんな奴に碧花は渡さない。

 別に俺の物である道理はないが、ならばアイツの所有物である道理もない。こちらにはそれを邪魔する権利がある。

 説明を何度も試みようとしては勝手に口ごもる俺の姿を見かねたのか、碧花が人差し指を立てた。

「……分かった。じゃあこうしよう。今は聞かないでおくから、またいつか教えてくれ」

「―――お、おう」

 ひょっとすると、彼女は俺の気を逸らしたかったのかもしれない。実は大して気になっていないけど、俺の気を落ち着かせる為……的な。

 だとするなら助かった。あの光景は見ようとしなければ見えないし、今までの会話で俺は微妙に直前の出来事を過去の物としていた。何やらとんでもない約束を成り行きでする事になってしまったが、どうせ俺達が大人になる頃には忘れている。

 小学生の『将来結婚しよう』程当てにならない言葉は無いのと、同じように。

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