役に立たない抑止力

 まさか碧花が助けてくれるでもなし、いよいよ俺の命運は尽きたと思ったが、いつまで経っても怪物は襲って来ない。背中から落ちたせいで暫くはまともに動けないが、これなら痛みが引くまでのんびりしていても、怪物は襲って来なさそうである。

「…………こ…………だ」

「……え?」

「美原は…………どこ……だ」

 視界の外から聞こえる声は紛れもなく怪物の……いや、怪物じゃない。神乃だ。


 え、神乃? 


 背中の痛みは全然引いていなかったが、思わず俺は立ち上がって怪物を見てしまう。しかし怪物は何度見ても怪物だ。眼窩と思わしき部位から無限に細長い生物が湧いて……いや。眼窩こそ確かに先程見た怪物のままだが、それ以外は記憶に新しい神乃の姿だった。

 このよく分からない奴を、俺は何と呼べばよいのだろう。中途半端に神乃の面影があるせいで、ミミズみたいな細長い生物を生み出す眼窩が余計に気持ち悪い。

「お、お前……神乃か?」

 おかしい。神乃と美原は碧花曰くちゃんと逃がした筈だが……嘘か? いや、嘘だとしても、わざわざ俺にそんな嘘を吐く理由が思い当たらない。となると考えられる可能性は、何だ?

「……美原は…………美原……」

 可能性とかそういうものはこの際置いておこう。今はこの怪物……神乃……どっちかは分からないが、先程までの襲撃者をこのまま放置するのはリスクが高すぎる。一先ずは落ち着かせて……いやいや、違う。あっちの事は気にするべきじゃない。どうしてこの瞬間だけ神乃に見えるかはともかく、優先すべきは己の身の安全だ。

「み、美原はあっちだぞ!」

 半端に神乃の面影があるせいでチクリと心が痛んだが、少し待って欲しい。

 ついさっきまで殺されかけてたのは俺だ。それが運よく助かったから、ついでに身の安全まで確保しておこうというだけの事。非難される謂れは無い。碧花は二人をちゃんと逃がしたと言っていた。なら怪物がどういう風に変化しようとあれは怪物だ。俺は碧花を信じている。だから普通に、至って単純に、自己防衛させてもらう。

 俺の声は聞こえているようで、神乃みたいな怪物は俺の指が向けられた方向……全くの出鱈目を指している……に向かって、引き留める間もなく走り去ってしまった。去る直前にやはり良心が咎めたが、時既に遅しだ。


 ―――あれ、本当に怪物だよな?


 実は神乃だった……なんてのが真実だったら笑えない。そうであっても、出来ればドッペルゲンガー的な……似て非なる者であってほしい。そうじゃないとまるで俺が見捨てたみたいで……いや、絶対に本人じゃない。

 どうしても疑いが残ってしまうが、碧花が逃がしたと言ったなら、俺はそれを信じる。信じろ。碧花は俺がどんなに弱い立場でも信じてくれたではないか。それにも拘らず俺がこういう時に彼女を信じないのは、恩知らず以外の何者でもない。

「……携帯無いの、やっぱ不便だな」

 この世界の文明レベルは水平的ではなく、時代ごとの様々な文明が中途半端に入り混じっているが、そんな世界でも共通している事がある。それは電子機器が一切存在しないという事だ。

 携帯が無いから連絡は口頭(ひょっとしたら俺が知らないだけで伝書鳩とかあるかもしれない)、電子レンジもガスコンロも無いから料理には竈、もしくは囲炉裏を使わなければならない。他にもベッドが無い事とか、蛍光灯が無い事とか、言いたい事は色々あるが、とにかく不便だ。

 生活自体はもうすっかり慣れたので、実は今更電子機器を戻されても困るのだが、こういう時にはあっても良い。雪と離れてもうかなりの時間が経っているから、出来れば安心させてやりたい。俺の事をきっと、ずっと心配していると思うから。

 何としても生き抜く為に体力も考慮せず走ったばかりだが、俺の体力の事なんかより、雪の心的負担を軽減させた方が良いだろう。体力なんて後で幾らでも回復出来る。雪の料理を食べればいつだって元気一杯だ。


 ―――早く帰ろう。


 痛みに耐えかねる脇腹を叱咤して、俺は二人の待つ家へと走り出した。一秒でも早く、一歩でも早く言ってやるのだ。

『ただいま』と。 











 気のせいかもしれないが、ここ最近走ってばかりな気がする。俺は陸上部では無いのだが、心なしか走る事が楽しくなってきた気がする。気のせいだろうか。

 気のせいだ。要するに褒美の問題なのである。目の前に吊るされた餌が俺にとって魅力的であればある程、当然の様に俺は頑張る。飽くまで結果を楽しんでいるだけで、走るという過程を楽しんだ事は一度もない。

 だって疲れるし。

 商店街に連なる形で家があればまだ楽だったかもしれないが、俺達が暮らす家はそこを超えて更に先へ突き進んだ……村八分を受けているのかと疑うくらい、隔離された場所にある。しかしあの二人の性格でそれは無い。最低でも雪は街の人達と親しそうに会話していた。

 ようやく家の前にまで到着したが、玄関に手を掛けた所で動きが止まる。突然、何と言って入ったら良いか分からなくなった。後ろめたい事でもした訳ではないし、普通に入れば良いだろうに。何を悩んでいる…………

 念の為一呼吸おいてから、俺は扉を開けた―――



「狩!」



「ぐえッ!」

 待っている、とは言ったが、まさか玄関で出待ちされているとは思わなかった。この時の驚愕は、死角からお化けが出てきた時のそれに等しい。反射的に雪の身体を受け止めたとはいえ、深編笠に鼻がぶつかった。中々痛い。

「狩、何処に行ってたの?」

「いや、行く所があるって言っただろ」

「遅いッ。流石に心配したんだよ」

「……ごめん」

 言い訳のしようがない。どんなにすばらしい理由があろうと、俺が心配を掛けたのは事実なのだ。深編笠の先にある双眸を見るのが怖くて目を背けると、雪の指が俺の額を小突いた。

「こっちを見て」

「…………」

「見て」

 渋々、目線を戻す。俺からは何も見えない。どんな瞳の色かも、大きさかも、そもそも普通の目なのかも。

「何かあったんだね」

「ん……まあ、あったな。……聞きたいか?」

「ううん、狩が言いたくないなら言わなくていいよ。ただ、もう心配させないで。狩が居なくなったら、私は……」

 続けて雪は何かを言おうとしたが、それを言葉にする事はせず、無言で俺の手を家の中まで引いた。よろめきつつ入室した俺を迎えたのは、香ばしい匂いのする料理の数々。楼は既に食事の準備を整えており、後は俺さえ揃えばという状況であった。

「何処でも良いから座って。さあ早く」

「お、おい。雪―――」

「いいよ、何も言わなくて。私は狩さえ戻ってきたら……それだけでいいから」

 竈に身体を向ける雪の背中には、何処か哀愁が漂っていた。   

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