夢?

「起きなよ、狩也君」


 聞き覚えしかない言葉と共に俺は意識の首根っこを引っ張られた。頭を持ち上げると、正面には机を挟んで碧花が座っていた。相変わらずの無表情で、じっと俺の事を見ている。


「あ、碧花ッ?」


 馬鹿な。こんな話があってたまるか。俺は彼女に頼らず自力で勉強しようと決心したのに、いつの間にか碧花と勉強していた。夢だろうか。そうだ、夢に違いない。心の何処かで自分の選択を後悔していたから、俺はきっとこんな夢を見ているのだ。


 頬を抓ってみる。痛い。え、夢じゃないの?


「何か悪い夢でも見ていた様だけど、何の夢だったの?」


「え、夢? 夢って……これが夢じゃないのか?」


「……さっぱり何を言っているか分からないんだけど。そもそも私に勉強を教えてと言い出したのは君じゃないか。現実逃避したいのは分かるけど、テストは待ってくれないよ」


 …………待て。


 記憶を掘り起こしてみたが、やはり碧花を誘った記憶が無い。放課後にも碧花は来なかったし(来たら多分俺は頼っていた)、来なかったなんて印象深い出来事を忘れる筈がない。


「お前、放課後俺の所に来たか?」


「うん。来たよ」



 え?



 何から何まで話が合わない。どういう事だ。これは俺の見ている光景が夢である事の証明か、はたまたつい先程まで俺が見ていた光景が夢である事を証明しているのか。思考を必死に巡らせるが、答えは出ない。強いて言えば、碧花が今まで俺の所に来なかった事が無いので、あの時に限って居なかったのはおかしい。そして俺が自分で勉強するという思考に至る事もおかしい。


 ……釈然としないが、一応納得した。今見ている世界こそ、現実である。


「…………ああ、おぞましかったぜ」


「何の夢を見てたんだい?」


「ん、いやあな。俺が一人でテスト勉強するんだよ。でちっともわからなくて、知恵熱が出てくる夢でさ―――」


「……夢の無い夢だね」


「ほっとけ! しっかし夢の中の俺は、良く一人で勉強しようと思ったよな。我ながら凄いと思う」


「ほんとにすごいねえ。じっさいはわたしにべんきょうをおしえてもらってギリギリなのにねえ」


「どうやったらそんな棒読みみたいな棒読みが出来るんだよ!」


 あれが夢であると認識した俺は、心機一転、素直に碧花に甘える事にした。三年分の参考書が家にあるお蔭で、勉強が捗る。


 とある一点さえ見なければ。


 言わずとも分かりそうなものだが、一応問いとして出してみよう。一体何が俺の勉強を邪魔しているのか。


 太腿? 


 碧花が基本的に機能性重視で短パン姿なのは周知の通りだと思う。そのお蔭で肉付きが良くて、それでいて引き締まった太腿は、見ているだけでかぶりつきたくなると言っては何だが、そう思わせるくらいには毒である。が、違う。そもそも正座してるし、机に遮られてるから見えないし。蛇足な感想だが、ミニスカとか履いてくれないだろうか。


 下半身系統は机によって(この位置からお尻が見えたら、そいつは透視能力持ちに違いない)消去される。ならば腕?


 確かに綺麗だ。精巧に作られた人形と言われても違和感が無い。けれども違う。もうちょっと横の話―――




 そう、胸だ。




 仮に俺が貧乳好きだったとしても、その状況に対して一言もコメントを残すなという方が無理である。巨乳の凄い所は、好きか嫌いかはともかく、万人の目にインパクトを与えるという事だ。特に碧花の胸はこの国の平均バストというものを遥かに凌駕した大人顔負けの胸改めスタイルなので、巨乳好きな俺にとっては猛毒の類に入る。


 そんなのいつもの事じゃないか、と思うだろう。違うのだ。胸元が開けている訳でもなく、俺が毒だと思っているのは、彼女がその胸を机の上に乗せているその状態の事である。


 胸の大きな人はああやると軽くなって疲れなくなるからやっているのだろう。そんな事は分かっている。分かっているが、男の俺にすれば性欲を刺激する劇物である。何が問題って、碧花の身体に気を遣うなら、辞めろとも言い辛い事だ。


「どうしたの? さっきからずっとこっち見てるけど。何か分からない所があった?」


「あ……いや、違うんだよ。違うんだよ! えーと……そう。疲れたんだッ」


「さっきたっぷり寝てたよね」


「寝てたけど! ほら、クラスメイトの野球部なんか毎時間毎時間寝てるだろ? あれと同じなんだよッ」


 ある一点さえ見なければとなどと言いつつ、俺はその一点しか見ていなかった。かなり苦しい言い訳だったが、俺の言葉を受けて、碧花がゆっくりと立ち上がった。


「仕方ない。そういう事ならコーヒーでも入れてくるよ。ブラックで良かったよね」


「お、おう。有難う」


「お礼なんていいよ。コンディションを整えるのもテスト勉強の一環だからね。悪いけど少し待っててよ。直ぐ終わるからさ」


 彼女が階段を降りていく。次第に音が下へと移動すると、俺は大きくため息を吐いた。良かった、何とかバレずに澄んだ様だ。今なら勉強に集中できるが、彼女が不在の今やっても、夢の様に頭を悩ませるだけだ。


 俺はリモコンを取ると、彼女が戻ってくるまでの間、テレビを見る事にした。


「…………はあ」


 香撫と那須川の事件は、当然報道されている。やはりここが現実か。他人事とはいえ、妹の心を深く傷つけた事件を忘れる筈もない。チャンネルを変えたが、他のも物騒な事が報道されているだけだった。



『黒いフードを被った不審者による犯行か。殺人鬼の思惑とは』


『17歳学生が不審死。都市伝説、殺人依頼サイト「マガツクロノ」の真偽』



 後者の事件はオカルト部が好みそうである。前者は知らん。俺には多分関係ない。流し見気味にテレビを見ていると、俺の電話に着信が掛かった。


「ん?」


 着信先は不明。正直めっちゃ怖いが、出るだけ出るとしよう。大丈夫、都市伝説とかそういう類のものではない筈だ。悪戯電話なら、それはそれで構わないし。


「もしもし」




『…………碧花さん。どうすれば私と友達になってくれますか?』




 この声に聞き覚えが無いとは言わせない。電話越しに聞こえるこの声は、今は亡き天奈の元友人である香撫の声だ。 


「え、もしもし?」


 俺の声は届かない。電話越しに一方的な会話が繰り広げられる。



『……そうだな。じゃあ君、天奈と絶交出来る? 出来るだけ最悪の形で。それが出来たら友達になってあげるよ』


『えッ、本当ですか?』


『ああ、本当だとも。君にそれをやる度胸があれば、だけど。いいのかな? 君は友達を失う事になるよ?』


『問題ありません! 私にとって天奈は私を引き立ててくれる脇役ですから! 碧花さんと友達になれるなら、あんな子は要りません!』



 香撫と話している人物の声にも聞き覚えがある。というかさっき聞いた。


―――嘘だろ?


 この会話がどういう状況でされたか、心当たりがない訳ではない。あの時だろう。俺が二人に接近した時の会話の一部が、全く同じである。という事はつまり―――






「戻ったよ」






 お盆に二つのカップを乗せて、碧花が音もなく帰ってきた。階段を上った音が聞こえなかったので、俺は不意を突かれた事になる。


「うおッ!」


「テレビ見てたの?」


「……お、おう。俺一人でやってもどっかで行き詰まるだけだしな。お、お前が帰ってくるまで待ってたんだよ」


 碧花は何食わぬ顔でコーヒーカップをノートの横に置いてから、お盆を机の下に置いた。先程掛かってきた謎の電話は既に切れていたので、事の真偽を証拠と共に問い詰める事は出来ない。だが今のやり取りは、間違いなく…………


「なあ碧花。変な事聞いて良いか?」


「ん? 何かな」


「お前さ……何か俺に隠し事してるか?」


 遠回しに聞く方法が無かったので、直球になった。彼女からすれば俺が突然聞いてきた様なものなので、碧花は目を点にしたまま、暫く固まった。それから瞬きを挟むと次第に硬直は解けてきて、彼女は首を傾げる。


「随分と急な質問だね」


「答えてくれ。答えてくれないと、俺は勉強に集中出来ない」


「へえ。そうなの。じゃあ答えようかな。君に対して隠し事をしてないか否か、だったよね。あるよ、勿論。人間には隠したい事の一つや二つ、あるものさ。君だってそうじゃないの?」


 的確なカウンターを喰らい、俺は言葉に詰まった。こんな事なら国語の勉強をしておけばよかっただろうか。碧花と共にやっている教科は数学と英語と日本史と地理。丁度国語はやっていない(参考書はある)。


 会話というものは基本的に会話のキャッチボールと称される様に、交互に話すのが基本だが、俺が沈黙によるパスをした事で、碧花が続けて言った。


「もし、何かを疑っている様なら、これだけは言っておくよ。私は君の敵じゃない。国や家族が敵になっても、私は絶対に君の敵にはならない。中学校の頃、やっただろ? 赤い糸を使って、指切りをさ」


 コーヒーを一度口に運ぶと、碧花はペンを持って俺の方を指した。


「ほら、早く勉強しないと夜になっちゃうよ」


「……………………は、はい」


 俺の反応が遅れたのは、何も言葉に詰まっていたからではない。指切りの時の話を持ち出した時の彼女の瞳が、とても優しくて。見惚れていたのだ。







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