とても穏やかで、優しい異端
「君、さては英語の授業を真面目に聞いてなかったね?」
「いや、寝てなかったし」
「寝てなかったら真面目に聞いてるなんて極端な価値観は改めなよ。仕方ない面もあるとはいえ、本当に勉強してこなかったんだね」
「まあ、うん。ごめんなさい」
碧花との勉強は楽しいの一言に尽きる。彼女の一挙手一投足をここまで間近に見られる事もそうだし、元々大人な雰囲気を持っている事もあって、俺は大当たりの美人家庭教師を雇っている気分になった。休憩のたびに飲むコーヒーは抜群に上手い。
彼女を妻にした男は、幸せ者に違いないだろう。
「いいよ。基礎から教えるから。狩也君、この世に出来ない事なんて無いんだ。苦手だって教科も、それは基礎が出来てないだけだから、基礎からやればちゃんと出来る様になるよ。英語の基礎ともなると、中学校の頃の教科書が必要かな」
「探してくるか?」
「いや、それには及ばない。これでも君の家に置いていった全ての参考書、及びこれまで目を通してきた参考書の内容は暗記している。君一人を教える程度は造作も無いよ。じゃあまずは本当に基礎の所から始めるけど―――」
何気ない会話の中に碧花の異常性を発見する度に、良くこんな女性と友達になれたものだと思っている。出会いからしておかしかったが、それでもここまで長続きするなんて奇跡に近い。だからこそ俺は、彼女の事を『憧れ』ではなく、『好き』になったのだろうが。
「―――聞いてる?」
「おう、聞いてるぞ」
「そう。じゃあ何の話をしてたか分かるかな」
「前置詞」
「ノートに書いてある事言っただけじゃないか。せっかく授業してるんだから、ちゃんと聞いてくれないと困るよ」
それから続けて碧花は授業を再開する。流石にこれ以上は彼女に対しての無礼になるので、ちゃんと聞く事にした。
「質問はある?」
「流石に基礎の基礎だしな。無いよ」
「良かった。あったらどうしようかと思ったよ。要望が無ければ、このまま英語を続けるけど」
基礎の基礎を俺は受けている訳だが、ここで別の授業にすり替わると、十中八九俺は忘れる。今まで忘れてきたから点数が悪い訳で、つまりここで俺が取るべき選択肢は、英語を取り敢えず徹底的にやる事である。
「続けてくれ」
「了解」
いつ以来だろう、こんな穏やかな時間。『首狩り族』として生きてきた俺にとって、穏やかな時間というものは非常に珍しいものだった。退屈なのは嫌だが、これは退屈ではない。碧花が一緒に居るのなら、只ボーっとするだけでも俺は楽しいだろう。オカルト部の事も、天奈の事も、今は忘れられる。
萌も由利も可愛く、恋愛対象として見ている事に変わりはないのに、それでも俺が碧花を特別好きでいるのは、きっとこの時間が幸せ過ぎるからだ。ここに居るのは『首狩り族』ではない。何故なら他でもない碧花が俺の事をそういう風に認識していないからだ。ならば俺は、一人の男子高校生である。首藤狩也という、何の取り柄も無い普通の学生である。
ふと時計を見ると、そろそろ七時を回ろうとしていた。
「碧花、もう夜も遅いぞ。そろそろ帰ったらどうだ?」
俺にそう言われて、碧花も外の暗さに気が付いた。
「ん……ああ、そうだね。そろそろ帰らないと不味いかな」
本来の俺ならどさくさに紛れて泊まる事を促したかもしれないが、今は碧花に天奈を預けている状況だ。俺の都合を優先している場合ではない。
「そう言えば、あれから記者が君の家に来た事ってあるかい?」
「ん…………いや、まだだよ。まあそんなに日も経ってないし、まだこっちまで情報が繋がってないんじゃないか。遅かれ早かれ来ると思うけどな」
「……面倒だね」
「何が?」
「記者だよ。君は知らないだろうけど。この手の事件を嗅ぎまわる記者は態度が気に食わないんだ。有り体に言って腹が立つ。もし目の前に居たら、スタンガンを当てちゃうかもしれないね」
「やめとけッ? 捕まるぞお前!」
「……フフッ、冗談だよ。君に会えなくなるくらいなら死んだ方がマシだ。大丈夫、何もしないよ。法に触れてしまうからね」
彼女は冗談めかしたつもりなのかもしれないが、つい先程、妙な電話を受けた俺には、冗談として受け取れなかった。時間を経る内に『碧花がそんな事をする筈がない』とは思いつつも、この手の話題になると、やはり気にしてしまう。
「…………さて、じゃあそろそろ帰ろうかな。狩也君、またね」
一度帰ると決心したなら、彼女の行動はとても速い。残っていたコーヒーを飲み干すと、碧花は素早く立ち上がって足早に階段を降りて行った。あまりの行動の早さに俺は暫く呆気に取られていた。
「―――っちょい! 碧花ストップ!」
ようやく動けるようになり、俺がどうにか廊下に顔を出した頃、碧花は既に玄関の前まで移動していた。俺の声に立ち止まり、振り返る。
「何?」
「最近は物騒だしさ……送るよ」
「え?」
「いや、さっきニュース見てたんだけどさ。その時に不審者の話があったし。女の子を守るのは男の役目だろ? 授業料の代わりでも何でもいいけどさ。送らせてくれよ」
彼女が立ち止まっている内に俺は距離を詰める。外は特別寒い訳ではないので、別に着替える必要性はない。靴のかかとを潰さない様に履くと、俺は彼女の手を力強く握りしめた。
「あ、ちょっと…………!」
勢いよく扉を開ける。外世界は、やはり闇に包まれていた。女の子一人を出歩かせるには、あまりに危険である。
「ほら、行くぞ」
「…………うん………………」
碧花は指を絡ませて、俺の方に身体を寄せた。
直前にニュースを見たせいでかなり心配していたのだが、流石に早々殺人鬼に遭遇する事は無い様で、俺達は何の問題も無く碧花の家に辿り着いた。
「それじゃあ、引き続き宜しく頼む」
「任せておいてくれ。君の妹は私が守ろう」
「助かるよ。じゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
彼女は少し名残惜しそうに俺から手を離すと、玄関の扉をぴしゃりと閉めた。そして程なく鍵が掛かった。出来れば天奈の姿を一目見たかったが、こんな時間だし、風呂でも入っているのだろう。俺は身を翻し、さっさと家に帰る事にした。
さっきは温かった手が冷たい。
ついさっき別れたばかりなのに、もう人肌恋しいとはふざけた感覚だ。季節的に寒いのは致し方ないとしても、もうちょっとどうにかならないのだろうか。暫くは俺一人であの家を使わなくてはならないのだから、妹を心配させない為にも寂しさを連想させる様な状態は、出来れば続けたくない。
何と無しに空を見上げる。黒く、不穏な気配を感じた。既に夜なだけあってか、俺を挟む住宅からは物音一つ聞こえない―――
ん?
馬鹿な。物音一つ聞こえないなんて阿呆らしい話があるか。夜と言っても、今は七時だ。外に人が居なくなる事はあっても(そこまで田舎でもないのだが)家から物音一つ聞こえないなんて事があってたまるか。ここはどんな限界集落だ。
覗きをしているみたいで罪悪感があったが、近くの家の塀をよじ登り、窓から内部の様子を覗く。明かりが点いていない。そもそも、人が中に居る気配が無い。そんな状態はこの家だけにして欲しかったが、何処の家を覗いても、まるっきり同じ状態である。
怖くなった俺は、無事を確認する意味でも碧花に電話を掛けようとした―――携帯を持ってきていなかったので、無意味だった。
―――早く帰るか。
孤独と共に感じる寒さには格別なものがある。俺は急いで家に帰る事にした。どうせ着く頃には息切れするのだからしたくなかったが、今回はそんな事で躊躇しない。走り出す。何故だか分からないが、この街には俺以外誰も居なくなってしまったような気がした。少なくとも、今日は。
なので今回は、大人しく家の中で一日を過ごす事にする。因みにさっきまで俺の家の電気は使えたので、これで使えなくなっていたら、もうどうしようもない。泣く。
突き当りの角を曲がると、見覚えのある人物が目の前から歩いてきた。
「……萌?」
「―――あ、先輩。どうもこんばんは。何処かに用事でも?」
たとえオカルト部であろうとも、ゴーストタウンに迷い込んだかの様な寂寞を感じていた俺は、碧花を除けば初めて遭遇した彼女に抱き付いてしまった。
「きゃッ!」
「萌! 良かったああああああお前が居てくれて! ほんっとうに居てくれて助かった!」
「な、何ですか? 先輩どうしたんですかッ?」
下手したらセクハラにも思われる様な行動に萌は訳が分かっていなかったが、それでも通報する様な事はせず、きょとんとしたまま俺を抱きしめてくれた。人肌の何と温かい事か。五分も経てば、俺の孤独もすっかり解けていた。
「…………すまない。変な所見せたな」
俺を頼りにしてくれている後輩に、まさか『人と出会えなくて怖かった』なんて言える筈もなく、孤独を感じなくなった俺は萌から離れると、彼女から微妙に視線を逸らした。敢えて微妙に逸らしたのは、完全に視界から外してしまえば、また居なくなるような気がしていたからだ。
「いえ、それは別にいいんですけど。何かあったんですか?」
「何かあったって……ほら。何か周りの家さ、静かだろ。だから人が居なくなったんじゃないかと思ってさ」
「家……ですか?」
敏感な俺とは違い、言われるまで萌は気付かれなかった様だ。俺と同じく塀をよじ登り、家の灯りを確認する。何故か制服姿のままなので、暫くはパンツ見放題だが、今の俺に煩悩を優先させる道理も、余裕も無い。
「本当ですね。気配を感じないと言いますか……」
「だからだよ。急に変な場所来たんじゃないかと思って心配になったんだ。お前は何してたんだ?」
「あ、はいッ。実は部長と最近話題の殺人依頼サイト『マガツクロノ』について調査してたんですけど」
「ニュースでやってたな」
「部長、何か今回はやけに神妙な面持ちだったというか、思う所があるみたいで。今は別行動中なんです」
「別行動? サイトって事はネットだろう? 足を使う意味があるのか?」
「はいッ。最近話題という事もあって、きっと誰かが使ってる筈ですから、殺人の現場でも見る事が出来たらそれに越した事はないと思います!」
この暗黒の世界において、萌だけが俺の太陽だった。それにしてもどうしてこの少女は底抜けに明るく居られるのだろうか。やはり俺の見立てに間違いは無く、存外に肝は据わっているらしい。
「で、現場が見られたら良しと、今は歩いてるのか」
何故か萌が頭を振った。
「いえ…………その、先輩に言っても分からないと思いますけど。ゆうくんが、私を呼んだ気がして」
「ゆうくん?」
事情が良く分からなかったが、取り敢えず俺の家に歩きながら、萌の事情を聴く事にした。因みにクオン部長と連絡が取れなければ、寝床が無い(家庭の問題らしい)ので、俺にお世話になりたいそうだ。俺としては下心なしに、有難い甘えだった。
「私がオカルトを好きになったのって、ゆうくんのお陰なんですよ!私、中学校の頃まで、ゆうくんとずっと遊んでたんです。作り話かどうかも分からないですけど、聞いてるだけで、すっごく楽しかったんです!」
「ふーん。お前の同年代にも変わった奴が居るんだな」
「あ、違いますよ。ゆうくんは年上です。四歳くらい年上でしたかね。確か」
そんな人物に『君』付けするという事は、昔からの付き合いだったのか。探偵でも何でもないが、その程度は読み取れる。
「で、そのゆうくんが呼んだ気がしたってのは?」
「ゆうくん、私の事を呼ぶ時に独特の呼び方をするんですッ。『萌子』って。名前が萌で、お前は女の子だからって理由らしいですけど」
「萌子……かあ」
「どうかしましたか?」
「いやさ、クオン部長が実はそのゆうくんなんじゃないかと思ったんだけど。年齢的に、やっぱ違うか」
「違いますよ! 部長は部長ですッ! ゆうくんは部長と違って胡散臭くありませんッ!」
人知れず悪口を言われる部長。憐れなり。
しかし萌にとって、そのゆうくんとは余程大切な存在らしい。俺にとっての―――碧花みたいな。
「それに、部長は萌子なんて呼ばないじゃないですかッ」
「まあ、確かに」
「でもさっき、確かに聞こえたんです! 「萌子」ってッ。だから……もしかして、ゆうくんも『マガツクロノ』について調べてるのかなと思って」
オカルトは部活ではなく、萌にとっては趣味である。その趣味を作った原因にあるゆうくんとやらも、当然趣味であるから、個人でも何でも、気になるなら調べている筈と、大方そんな道理だろう。事情は呑み込めた。彼女が最初に言った通り全く分からないが、お蔭で萌と会えたのだ。俺も人知れず、そのゆうくんとやらには感謝せねばなるまい。
「……なあ。そのオカルトが好きになった経緯とかって、部長に話してるか?」
「いえ、話してないですけど」
「え? いやいや。確かにクオン部長は胡散臭いけど、有能だろ。人探しくらいお手のものじゃないか?」
「そうですけど……私、こういう事は先輩以外に話したくないんです。ゆうくんとの思い出は、大切な思い出ですから」
萌は珍しく気恥ずかしそうに頬を染めながら、俯いた。いつも俺に対して好意を剥き出しにしていた後輩とは思えないくらい、初心に。
その表情から何を読み取るのも俺次第だが、生憎と多分、俺は違う方向に解釈した。違和感のない解釈だが、もう少し素直に解釈しても良かったとは思う。胡散臭いという言葉が前述されていたせいで、俺は普通に信用されているのだと思った。
「……そうか。そう言ってくれると、まあ嬉しいよ。良かったら一緒に探すの手伝おうか?」
「―――いいんですかッ!」
「ああ。俺も暇だしな。ただ、ちょっと家に帰らせてくれ。こんな暗いと色々準備ってものが」
『よくやったよ、君は。お蔭で心置きなく、殺せる』
『碧花さん……嘘ついたんですかッ! 友達になってくれるって言ったじゃないですか!』
『友達にはなろうじゃないか。でも君の態度が気に食わなかった。君があんな言葉さえ言わなければ、私だって何もしなかったよ』
『……誰だって、好きな人の悪口を言われたら、気分悪いよね』
「……先輩?」
俺は誰も居ない道を振り返った。聞き覚えのある二人の声、そして俺の知らない会話。俺の知らない―――碧花。
「…………何でもない。付いてきてくれ」
きっと、これは幻聴なのだと信じたい。俺の見ている碧花だけが全てなのだと。傲慢な考え方かもしれないが、それでも俺は…………彼女が人殺しではないと、信じたい。
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