旅の二日目 朝の刻

 ……珍しく、気持ち良く眠れた。

 原因は分かっている。狩也君が隣に居るからだ。好きな人が隣に居る時程、安心出来る時は無い。この時だけは、私も全てを忘れる事が出来る。

 この旅は彼の現実逃避から始まったものだけれど、彼さえ望むのなら、私は一生涯付き合う事も厭わない。彼が喜んでくれるのなら、それで構わない。

「…………ん?」

 最初に感じたのは匂い。男の匂いだ。因みに言うまでもないが私にとって『男』とは狩也君を指す言葉であり、それ以外は全て有象無象だ。違いがあろうとなかろうとどうでもいい。興味なんて一切ない。

 目を開くと、鼻先が触れるか触れないかの所に、彼の顔があった。この距離なら、普段なら彼が起きるまで待機しているけれど―――今日の彼は、いつもより起きそうにない。これは私が待機している内に二度寝をしてしまうパターンだろう。

 現在時刻は六時三〇分。寝顔から推察するに、狩也君は後五時間くらい眠っている気がする。いや、それは無いか。早く出発しないと……旅の予定がズレる。今回に関してはお金がかかっているので、自由気ままにとはいかない。朝食も摂らないといけないし。

「…………狩也君。起きて」

 これで起きたら苦労はしない。女性の武器を使えば簡単に起きてくれるだろうけれど―――そんな事をしてしまえば、旅の趣旨が変わりかねない。

「…………狩也君?」

 眠りの深さが尋常ではない。これは昨晩の内にフルマラソンでもしない限りあり得ない眠りの深さだ。しかし私は知っている。彼にそこまでの体力が存在しない事を。

 それでは一体、どうしてこんなに疲れているのか。

 匂いは入浴したのか、感じられない。これでは彼に知られず昨晩の行動を知るのは無理そうだ。これは後で問い質す必要があるかもしれない。

「碧花…………」

「ん……? 狩也君、起き…………てはないね」

 それは寝言だった。私の名前の発音すら微妙にフワフワしていたから、寝言じゃなかったらそれはそれで心配だったけれど。

「俺ぇ…………実はぁ―――」














「―――うわああああああああああ! 碧花あああああああああ!」

 寝覚めは最悪だった。悪夢だ。あれは誰が何と言おうと悪夢だ。あんな夢を見るくらいなら、幽霊に殺される夢を見た方がずっとマシだ。


 俺が見た夢の内容は単純明快。 


 俺がプロポーズされた事を喋ってしまい、碧花はそれを祝ってくれるも、気が付いたら何処かに姿を消してしまう……というものだ。あれを悪夢と呼ばずして何を悪夢と呼ぶ。敢えてもう一度言わせてもらうが、殺される夢の方がずっとマシだ。

 勿論、それは殺される事に抵抗が無い訳ではない。

 しかし碧花が居なくなる事の方が、ずっと問題なのである。

「…………あれ?」

 無性に恐ろしくなって隣を見遣ったが―――居ない! 隣で眠っていた筈の碧花が何処にも居ない!


 まさか……正夢ッ?


「うわああああ! 違うんだよ碧花! 待って、話を聞いてくれ! 居なくならないでくれ!」

「いや何が」

「いやだから―――! …………あれ?」

 碧花が居る。起きたばかりの俺とは違って浴衣姿ではなく、泊まる以前の格好をしている。髪もしっかりと整えられていて、間違っても寝起きとは思わない。

「え? 何で居るの?」

「居なくなるなと言ったり、何で居るのかと言ったり、君も忙しいね。どっちなのさ」

 失言だった。何で居るの、というのは心からの言葉ではない。当然居なくなっている筈という思いこみとのギャップから生まれた言葉である。碧花はキョトンとしている事から、俺がプロポーズされた事は、どうやら知らない様だ。

 恋愛感情を持たないにしても、友達がプロポーズされたと知って無表情を貫ける人間は少ない。表情差分の少なさとは裏腹に、彼女は存外感情が豊かなので、流石に何か反応を見せるだろうという想像は難くない。反応が無いという事は、つまりそういう事だ。

「何か悪い夢でも見たの?」

「あ……まあ、見たよ。悪夢」

「どんな夢?」

「……お前が、どっか行っちゃうんだ」

 嘘は言っていない。プロポーズの事は敢えてぼかしたが、俺が夢を悪夢と断じる理由は、碧花が居なくなってしまう事が主な理由なので、語る必要は無いと思ったのだ。

「何処を探しても、お前だけが居なくなってしまって……それが、どうしようもなく怖かったんだよ」

「…………それで、あんなに取り乱したんだ」

 碧花は俺の俺の前に座り込むと、優しく俺の頭を抱き寄せて、胸の内側で留めた。

「……夢だから、仕方ないけど。不安に思うなら何度でも言ってあげる。私だけはずっと君の傍に居るよ。離れる事は無い。誰が何をしてもあり得ない。君と私を引き離そうとする奴等が居ても、私が何とかする。だから、心配しなくていいんだよ狩也君」

 服越しに感じる体温は無いが、柔らかさならある。とても柔らかくて、優しくて、心地よい。碧花という存在を確かに感じる。今、俺を抱きしめてくれている事を、確かに認識している。

「―――有難う。落ち着いた」

 手を離してもらい、俺は大きく伸びをした。忘れる所だったが、俺は寝起きだ。顔を洗ったり寝癖を直したり、色々する事がある。こんな所で碧花に慰めてもらっている場合ではない。

「良かった良かった。それじゃ、私は君の服を取りに行くから」

「え、俺の服? そんなの部屋に……無いな」

「この旅館、ご親切な事に洗濯機と乾燥機があるからね。無いなら無いで、まあ別に良かったんだけど、洗えるなら洗っておきたいよね」

「自分のは先にやった訳か」

「まあね。という訳で少し居なくなる。その間に君も出発の支度を整える事を勧めるよ。旅、まだ続けるんでしょ?」

「ああ、分かった。じゃ、また後でな」

「うん。後でね」

 軽く俺に手を振ってから、碧花は足早に部屋を出て行ってしまった。行動に移す際の早さは流石と言った所だ。まるでビデオを早送りしたみたいな速さに、少々呆気に取られてしまう。

「―――っと!」

 いつまでも呆けていたら、また彼女を不安にしてしまう。精神不安定の状態にあるとも思われるかもしれない。それは嫌だ。慰められる度に、俺は男としての弱さを自覚する事になるのだ。こんなんじゃいつまで経っても、碧花に惚れられる様な男になれない。

 『 』も、きっとそれを望んでない。



「―――よっしゃ! 準備すっか!」



 己を鼓舞するのに特別な言い回しは要らない。己の身体にエールを送り、俺は行動を開始した。

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