箸
人の幸福に大小はない。
幸福か、不幸か、その状態であることを単純に1か0かで測る。
昔々の学者はそんなことを言ったけれど。
私は個人の幸福に大小はあると思う。
そう、滅多に訪れることはないであろう幸不幸や、
日常的にありふれている幸不幸。
とても幸せと感じることもあれば、
少し不幸であると感じることもある。
今、私に降りかかった不幸も人によって感じ方は違うだろう。
だがそんなことはどうでもいい。
今、私は紛れもなく不幸を感じている。
現在進行形で、まるで時間が引き延ばされたかのように。
この刹那が、永遠かのように。
ほんの1秒にも満たないこの瞬間が、スローで再生されていくかのように感じられる。
僅か数秒前はこのようなことになるなんて予想できなかった。
僅か数秒前は幸福を噛みしめ、不幸などは感じようもなかった。
僅か数秒前はありふれた、しかしとても大切な時間であった。
しかし悲劇は訪れる。
そう、私はあろうことか、大切なものを落としてしまった。
「ああぁぁ!箸落っことしたぁ!」
「うるさっ!?いきなり叫ぶな!」
「安達はドジですね。」
「この前はスプーン落っことしてたわよね。」
昼食中、箸を落としてしまったのだ。
だと言うのに、この絶望を誰も理解してくれない。
これが孤独、か。
「悲しいし、箸を取りに行くのが面倒くさいな。」
「僕たち今、入り口近くのテーブルに座ってて、食器類は食堂の奥の方にありますからね。」
「と言ってもそこまで遠い訳でもないんだよな。」
「じゃあ伊江、取って来てくれ。」
「『じゃあ』、じゃねぇよ。『じゃあ』じゃ。今の文脈から自分で取って来いって暗に言ったんだけどな。高校生にもなってこんな駄々こねる奴、初めて見たよ。」
言葉の裏なんて分からないな!だから取って来てもらいたい!
熱い眼差しを伊江に向ける。
「そんな目で見てもダメだからな。」
「箸くらい自分で持って来なさいよ。」
しかし効果は無かった。
世間の風が冷たい。
この悲しみを共有する事は出来ないのだろうか。
「仕方がありませんね。」
「竹塚!」
やはり持つべきものは友!竹塚は頼りになるな!
「はい、これ。」
「ん?」
これは、カッター?
何故カッターをこちらに渡してくるんだ?
無様過ぎて見てられないから切腹でもしろって事だろうか。
「竹塚、なんでカッターを渡したんだ?」
「これで残った箸の片割れを削れば串になるじゃないですか。それで刺して食べればいいんですよ。」
「竹塚……。」
伊江が私に変わって質問すると自分で食器を作ればいいと回答が返って来た。
伊江は呆れているが、中々いいアイデアなのでは?
「ナイスアイデアって顔してるが、考えてみな?箸を削って串にするのと、箸を取ってくるの、どっちが早くて楽だと思う?」
「竹塚、騙したな!」
「いや騙してはいないだろ。」
くっ、流石は竹塚。頭脳派は一味違うって事か。
待てよ?
「竹塚、私の代わりに箸を削ってくれないか?」
言い出しっぺにやってもらえばいいんだ!
「まだ食事中なので午後の授業中にノートを取り終わったらやっても良いですよ。」
「伊江。」
「やだ。」
まだ何も言ってないぞ!竹塚に任せていたら食事にありつけないから代わりにお願いしようとしただけなのに!
「安達、よく考えるんだ。こうして馬鹿な事言ってる間に流れた時間でお前は箸を取りに行って戻ってくるまで出来たはずだ。」
「た、確かに!」
「分かったか?分かったらさっさと「タイムマシンを作って無駄にした時間を取り返そう!」………は?」
伊江は良い事を言った。時間というのは有限だ。
この時間を取り戻さなくては!
「竹塚、タイムマシンを作りたい!」
「ロマンがあって良いですね。ですが、科学の分野なら呼ぶべき人間が他にいると思いませんか?」
「青井か。」
うちの学校でも天災、もとい天才と名高い科学部の青井をチームに勧誘できれば大きな前進となるだろう!
「うん、タイムマシンを作りたいとかはもうツッコむのを諦めるが、それを作ってる間に昼食を食べる時間が無くなるんだよな。」
「タイムマシンはまた今度にしよう!」
遥か未来のタイムマシンより目の前にあるご飯が優先だ!
食べることは即ち生きる事って誰かが言ってた。
「ごちそうさま。」
「さっきから会話に入ってこないと思ったら、ずっと食事を続けてたのか。」
いつの間にか沙耶が食事を終えていた。
箸を落として悲しみに暮れる幼馴染を完全にスルーするのは良くないと思います。
しかし食事を終えたと言うことは、
「沙耶、手が空いたよな。」
「自分で取りに行きなさい。」
食べ終わったんだからいいじゃん!
それに食べた分動かないと太るって、いやなんでもないです。睨まないで下さい。
「はぁ、と・に・か・く、そんくらい自分でやりなさい。だらしがないわね。」
「箸を落としたせいでテンションも地に落ちたから。」
このままではご飯が冷めてしまう。
どこかに救いの手は無いのか。
「相変わらず騒いでるなぁ。」
「親方、実は………。」
「ほれ、これを使いな。」
そう言って親方は箸を差し出してくる。
「お、親方………!ありがとう!」
「食器を片付けるついでだよ。それより早く食っちまいな。もぉすぐ昼休みが終わっちまうぞ。」
親方の優しさに感動した。
この感動を噛みしめながら再び食事を口に運ぶとしよう。
それに大丈夫。授業は遅刻しても死なないけど、食事はしないと死ぬから食事優先で。
「僕も食べ終わったので片付けてきますね。」
「俺も。」
「あたしも。」
「え、ちょっと?置いていくつもりか?」
それはひどいのでは?
「だって俺ら食べ終わってるからな。」
「授業に遅刻したくはないからね。」
なんてこった。仕方がない。私も急いで食べて戻るとしよう。
箸を落とさないように気を付けながら。
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