ボタン

今日も今日とて、現実的な目線しかない男にロマンと言う名の、この世の心理について説いている。


「もしも目の前にボタンがあったとするだろ?」

「押さないからな。」

「押したくなるじゃん。」

「押さないからな。」


だと言うのに目の前の男、伊江は頑なに拒絶し続ける。

それでも私は言葉を止めない。


「あらゆる物には役割がある。そうだろう?」

「押さないからな。」

「しかしその目的、用途を果たすことが出来ないまま存在し続けるのは、正しい事なのだろうか。」

「押さないからな。」

「それでは存在している意味がないと思うんだ。」

「押さないからな。」


理屈で伝えても無駄か。

それなら情に訴えるとしよう。


「存在意義のない道具なんてかわいそうだと思わないか?」

「押さないからな。」

「今、この場にいる私達だけが、彼に役割を果たす機会を、存在意義を与えることが出来るんだぞ。」

「押さないからな。」

「これは欲望ではなく、一種の救済だと思わないか?」

「押さないからな。」

「このままでは、そこで朽ち果てていく運命にあるんだぞ。」

「押さないからな。」

「簡単な決断さえしてしまえば運命を、未来を変えることが出来るんだ。」

「押さないからな。」


これだけ熱心に説得しているのに何故、私の話を聞こうとしないんだ!


「じゃあ一体どうすればいいんだよ!」

「そもそも非常ボタンを何もないときに押そうとすんな!」

「それなら今度誰かの誕生日とかになら押していいのか?」

「何もない時ってのはそういう事を言ってんじゃねぇ。非常ボタンなんだから非常時に押せって言ってんだよな。なんで記念日に押そうとしてんだよ。」




事の発端は私と伊江が廊下を歩いている時だった。

そこには赤く存在感を発揮するボタンが。

しかし押せば私は職員室に呼び出されて怒られてしまうだろう。

いつも目にする度にボタンを押したいという衝動に駆られていたが、足踏みしていた。

だが、今は伊江が一緒にいる。それならこの男にロマンを教えるという名目で言い訳ができるはずだ。

私は非常ボタンをロックオンし、近づいていく。

しかし、そこに伊江が立ちはだかる。まるで大切な物を守るが如く、一歩も引かない。

そこで私は説得を開始したのだ。




「なぁ伊江。ロマンって大事だと思わないか?」

「そうだな。人に迷惑をかけないって前提があれば。」

「お前にはそのロマンが足りていないと思うんだ。」

「お前には他人への配慮が足りていないがな。」


こいつ、ああ言えばこう言う。

そこまでして守るべき存在ではないだろう。その背後にあるボタンは。


「というか、お前がボタンを押したら俺まで怒られるだろうが。絶対巻き添えがいたからボタンを押そうとしてるだろ。」

「ソンナコトナイヨ。」

「片言じゃねぇか!絶対押させてやらないからな!」


くっ、どうにかしてこの鉄壁の男を退かさなくては。

しかし言葉を尽くしても聞く耳を持たず、かといって力で強引に退かそうとしてもたぶん勝てない。

どうしたものか。


「それならこのボタンを押したいという衝動をどうすればいいんだ?このままではあまりの衝動に身体が破裂してしまうかも知れないぞ?この周囲にトラウマ級の血の海が広がるかも知れないぞ?」

「そんなんで身体が破裂する訳ねぇだろ。どんな脅し方だよ。もう梱包材とかのプチプチでも潰してたらいいんじゃね?」


雑に返された。プチプチは楽しいけど、今はそれじゃダメなんだ。それじゃ潰した感は楽しめるけど、ボタンを押した感は楽しめないんだ。


「おめぇら、こんなとこで突っ立って何やってんだぁ?」

「お、親方か。今この男にロマンとはを説明してたんだ。」

「安達が非常ボタンを押そうとしてごねてたとこだな。」


伊江、そんな言い方は無いだろう。親方が私の味方をしてくれなくなってしまうではないか。


「親方、協力してくれ!ボタンが押したくてたまらないんだが、伊江が邪魔するんだ。このままでは正気を失ってしまうかもしれない!」

「さっきは身体が破裂するとか言ってたくせに。言ってることが違うじゃねぇか。」

「俺にはこの段階で既に正気を失ってるようにしか見えねぇんだが。」


失礼な、私は正気だ!ちょっと勢いのまま喋ってるけど正気だから。


「安達、どうしてもボタンが押したいんだな?」

「押したい。」

「この際、非常ボタンじゃなくても良いか?」


親方が一つの案を提示してきた。

なるほど。折衷案という訳か。

相手が譲歩したなら、私も譲歩しよう。


「OKだ。」

「それじゃあ、うちの近所にでけぇ和風屋敷があるんだが、そこでも良いな。」

「あぁ、あそこか。安達、良かったな。ボタンが押せるぞ?これで身体が破裂せず、正気も失わなくて済むな。」

「え?」


親方がヤバそうな案を提示してきて伊江が追撃を仕掛けてくる。

待ってほしい。この間、親方の家に行った時にその家は目にしたことはあるし、危ない人は住んでないって聞いたけど、それはそれとして怖いんだが。


「いやぁ、あの、なんだか急に衝動がどっかに旅行とかに行っちゃったのかな?大丈夫そうだから、落ち着いたから。」

「何言ってんだ?ほら、行くぞ。」

「そうだな。安達の安全が大切だからな。」


ニヤニヤしながら両サイドを固められ、連行される。

いやだぁ!死にたくなぁい!

私の安全を大切にするなら連行するという選択肢を取らないと思うんだけど!?




その後、玄関まで連れて行かれたところで靴を履き替える隙を突いて逃走に成功した。

ごねる時はもう少し逃げ道に気を配ろうと思える一幕だった。

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